ウィキペディア日本語版と私

ウィキペディアの人、と私を認識しておられる方がいるようで――たとえばid:wiselerさんのこのエントリ、それはまったくの間違いではないよねと思いつつ、自分としては素直に受け取ることのできない部分もあり、説明をする必要を感じていた。とりわけウィキペディア日本語版と私の関係については、どこかできちんと説明する必要があるのだなと思った。

私は現在、ウィキペディア日本語版からは投稿ブロック制限を受けていて、編集する登録ユーザの集団というもっとも狭い意味では「ウィキペディア日本語版のコミュニティ」の一員ではない。一方で、他に8つあるウィキメディア財団のウィキの日本語版プロジェクトには引き続き参加しているし、また他の言語のウィキペディアにもそれなりにはかかわっている。おそらくは、わたしはウィキメディア・プロジェクト全体と深く関わっている日本語圏では少数のユーザのひとりであり、そのいっぽうでウィキペディア日本語版の編集が出来ないのだが、後者にそれほど不都合は感じていない。そしてまた、後者の問題については、それが解決されるなら望ましいことではあろうが、わたしのほうから出来ることはすでになされていて、何かそれ以上のことが私の側にできるとも、またするべきだとも現在のところは考えていない。以下、そのことをすこし詳しく述べていく。

ウィキペディア参加者としての私

私はウィキメディア・プロジェクトの参加者ではあるし、ウィキペディアにも一般の方よりは深くかかわってはいるけれど、ウィキペディアのコミュニティの中心的な一員ではない。ウィキメディア・プロジェクトの中の人、というのが、より正確な表現だとは思う。ウィキメディアのなかでさらに細分していけばウィキクォートということになり、それは普段いつも一緒にプロジェクトで活動している人たちは理解してくれているけれども、そうでない人にはなかなか伝わらない。さらにプロジェクトの中でも、ウィキメディア・プロジェクトとウィキペディアをまったく等価にみなしている人たちがいて、その人たちにとっては私もまたウィキペディアンである。「ウィキペディアの中の人」というのがまったく間違ってはいないだろう、という諦念も、だからとくに新しいものではない。

ウィキペディアの中の人、と時々他の方から紹介されることがあって、そのことに微妙なものを感じるようになったのはいつごろだろうか。Dirk Riehle のインタビュー(Dirk Riehle: How and Why Wikipedia Works: An Interview with Angela Beesley, Elisabeth Bauer, and Kizu Naoko)が2006年5月から6月になされたもので、そこでした自己紹介をみると、すでに「ウィキペディアは(ウィキメディアにおける)私の活動の中心ではないんだけども」というようなことをいっており、数年前であることは間違いがないのだが、すぐには思い出せない。

たしかに私は wikipedia.org のいくつかの*1ウィキにアカウントを持っていて、そのうち5つ*2では500回以上の編集をしている。うち2つ*3では1000、そして実をいえば130以上あるウィキメディア・プロジェクトのウィキのアカウントのうち一番編集回数が多いのはウィキペディア日本語版で、だから他人が私を「ウィキペディア日本語版の人」とみなすのも、まったく根拠のないことでもないことは私にも分かる。

だけれども、それはあくまでもその人たちの判断であり思料であって、わたしの実感ではなく、私のアイデンティティのありようとも違う。ウィキメディア財団のウィキは現在700近くあり、それぞれに小さなウィキ上のコミュニティがある。当然ウィキペディア日本語版にも――ウィキメディアのなかでは――比較的大きなコミュニティがあり、1万回数以上の編集をしたくらいだから私も多少、いや量的には比較的多くの貢献をなしており、その意味では私は(現在は編集ブロックにあっているとはいえ)ウィキペディア日本語版の一員でもあるけれど、だからといってただちにウィキペディア日本語版がプロジェクトにおける私の「ホーム」であるということにはならない。

私がウィキメディアにおいて自分のホームプロジェクト――活動の拠点でありまた精神の安らぎを覚えるコミュニティ――と思うのは、メタ・ウィキメディア http://meta.wikimedia.orgウィキクォート英語版 http://en.wikiquote.org の二つである。

ウィキペディアの意義――わたし自身にとって、またこの世界にとって

私もウィキペディア――オンラインでフリーな誰でも使えてまた編集できる百科事典――の文化的・社会的意義を信じてはいる。だからこそ多大な時間をこれまでつぎこんできた。しかしいっぽうで観念論者としての私はウィキペディアだけでなく啓蒙思想の産物たる百科事典一般というものに大きな懐疑を抱いているし、またウィキペディアの根源にある「みんなの意見」を集めるというやり方にも全面的な賛意を与えたことはない。みんなの意見を集めて比較考量し多数派意見には重り付けをして……というウィキペディアのやり方は、畢竟プラトンのいう「思いなし」ドクサの集積であって、原理において正しさを保証するものではない。またそこで集められる陳述も、たいていのばあい経験的な事実とその叙述をめぐる争いであって、その集積はなるほどわたしたちの生活をある程度便利にし有用にするが、しかし存在の彼岸の真昼を求め、真理の開示をめざして存在をめぐる問いを立てるという人間理性本来の課題(とわたしが信じるもの)とは直接には関係がない。ウィキペディアの有用さを確信しつつ、しかしそれが日常的なものにとっての有用さにとどまるがゆえに、私個人にとって究極にはウィキペディアは大きな価値をもたない。

いっぽうで有用さそのものの意義を私も否定するわけではない。さらにウィキペディアがもたらすような有用さの恩恵に一切与っていない人たちがいる。ネットワークアクセスをもたない人・そもそも字が読めない人・字がよめてネットワークアクセスがあっても自分が知っている言語での言語資料がなく外国語を習得しなければ人類がこれまで積み上げてきた知の恩恵に与れない人々。そしてその差異は、ただその人がどこに生まれ何語を母語として育ったかという、その人がまったく自分では選ぶことの出来ない要因に決定されている。そのことを思うたびに私は身震いするような怒りとやるせなさを覚えずにはいられない。文字が読めること、ついでその文字で読むべき数々の資料があるということ、それは私にとっては人間らしい生活への必要条件であって、ウィキペディアがそれぞれの言語での言語活動を活性化させ、また言語資料を蓄積するということには、深い意義を感じている。

それで、ウィキペディアに参加してしばらくたって、私の活動の重心は、プロジェクト全体を支え、またいろいろな言語コミュニティへ運営に関する情報を発信するという、いわば managerial な方向へ移っていった。ウィキでいえば meta.wikimedia.org になる。またウィキペディアもその一部であるウィキメディア・プロジェクトには百科事典だけでなく教科書や辞書を作るプロジェクトもあって、私の個人的な嗜好は引用句集の作成に惹きつけられた。資料全体のアーカイヴを扱うプロジェクトではなく引用集に向かったのは、あるいは私自身のもつフラグメントへのロマン主義的な偏愛を反映してだったかもしれない。とにかくウィキメディア活動への理念的な共感はメタ・ウィキメディアでの活動に、自身の趣味的な志向はウィキクォートとりわけ英語版*4にもっともその処を得た。だから、私にとって、ウィキメディアにおける自分の家・ホームプロジェクトは、メタ・ウィキメディアであり、またウィキクォートなのである。

ウィキペディア日本語版と私、あるいは投稿ブロックについて

ところが、ウィキペディア日本語版には、この説明で満足しない人々がいて、執拗に私のホームプロジェクトがウィキペディア日本語版であると主張する人がいる。そうして自分のプロジェクトを省みろというようなことをいう。私からいえば、大きなお世話である。私の精神のありかは私自身が決めるのであって、余人に決めていただくようなものではない。ウィキペディア日本語版にもっと傾注しろということならまだその方の願望として受け止めないでもないが、上に書いたように百科事典プロジェクトとしての日本語版ウィキペディアに私自身はそれほどの緊要性を認めてはいないし、ボランティアプロジェクトである以上、究極にはそれはその方の希望以上のものにはならない。いままでにもそのことは何度か説明してきたが、プロジェクト内メーリングリストでまた先日そういった主張をなさったので、ここで改めてはっきり繰り返しておく。ウィキペディア日本語版は、わたしのホームプロジェクトではない。ウィキペディアの意義を認めつつ、百科事典という知のあり方に懐疑をもっている私にはウィキペディアは(どの言語であろうとも)ホームプロジェクトでありえず、また私個人は日本語に縛られる必要性を感じていない。理念と活動の方向を共有し、また心情を共有する人たちがいるところが、私の家である。それが必然であるか偶然であるかということは、私自身はそれほど関心がない。だが多言語主義の促進ということが自分にとってもっとも大きな関心事である以上、メタ・ウィキメディアが自分の活動の中心になっていったことは今のウィキメディア・コミュニティのなかでは必然的であったのかとも思っている。

そういうことを直接いってくる方が出てきたきっかけは、私が昨年の9月に、ウィキペディア日本語版のユーザページで、あるユーザさんに呼びかける際にそのユーザさんの姓を使い、それを問題視する人がいて、結果わたしがウィキペディア日本語版から投稿制限を受けることになったことだろうと思っている。そのユーザさん自身にはメールと、後日あるカンファレンスで(ってKOF2007ですが。わたしの講演を聞きにきてくださったので)お会いした際、お詫びを申し上げて、ご理解をいただいた。私は当事者二人の間でことが終わっているのだから、他の方にはかかわりがないことだと思っている。ウィキペディア日本語版のユーザのなかにはしかし意見を異にする方がいて、「コミュニティに対して謝罪しろ」と要求している。私はこのことで「コミュニティについて謝罪する」必要があるとは考えていない。――それは当事者間で決着のついたことであり、コミュニティという第三者の問題ではない。思いあたるのは「世間をお騒がせしました」というロジック、私は一般に「世間への謝罪」なるものは言説空間内の権力ゲームだと考えており、そのようなゲームに参加したいとは思わない。さらに、ユーザの何人かは決議をして、私がコミュニティに対して謝罪をするまでは私の編集権限を制限したままにすると決めたのだが、そうなさりたければそうなさるのがよいと私は思っている。謝罪とは自分が罪を犯した相手に対してするのであって、この場合はご迷惑をかけたユーザの方にはすでに謝罪し、了解もいただいている。さらに、コミュニティに対して謝罪することを「コミュニティ」(といっているがその一部)が決議し、それに私が従わないから私が「コミュニティを軽視している」とある人が主張するのだが、事の善悪についての意見が一致しないときに相手の意見に従うことは尊重ではなく、ゆえにその決議内容に私が従わなかったからといって、私が「コミュニティ」を軽視しているとはいえないと考える。事実、昨年からなんども、私はそのようには考えないということは返答を直接求められた際にはお応えしているので、わたしのほうでは軽視しているといわれるのは正直心外である。他者への応答可能性を果たすことが尊重であって、他者の意見に唯々諾々と従うのが尊重ではない、と私は考えている。

参考までに、そのときのウィキペディア上の議論についてリンクを付しておく。ご関心のある方は先方の言い分についてもご覧いただきたい。

なお Aphaia というのはわたしのウィキメディア・プロジェクトでの利用者名である*5

むすびに

自分が過たないとは私は考えない。けれど私が現在考えるところは上に述べたものに尽きていて、そうして考えを改めるような論点を提示されたことは私の側から見る限りではない。ただ、私は謝罪するべきであり、それがコミュニティを尊重するということだ、ということを仰る方がいるばかりであった。私はそれに同意しない。そうしてその代償が「ウィキペディア日本語版」プロジェクトからの追放だというなら、それを甘受するにまったくやぶさかではない。自分が理解も同意もしていない規範に従うことは非倫理的であり、ウィキペディアの編集アクセス権は、その非倫理性を贖うほどに私にとって貴重なものではない。

私はウィキペディア日本語版の編集がとくにしたいというわけではない。実際、一年数ヶ月か編集できない状況にあるが、さして不都合も起こっていないし、またウィキペディア日本語版と調整が必要な事態でも個々の関係者と連絡を取ることで解決している(そういう案件は、外部の方などがからむ場合もあって、そもそもウィキの上でやりとりすることはできないので、ウィキを編集することができるかどうかはまったく関係がない)。だが、自分が不当だと感じる主張――ウィキペディア日本語版を私が自分のホームプロジェクトとすべきだとか、ウィキペディア日本語版の一部のユーザの主張に私が従わないことが「軽視」であるとか――を耐え忍ぶつもりもない。それについてはプロジェクトのウィキやメーリングリストで折々に反論してきたが、上述のように議論が平行線なので、今回は逐条反論するのではなく、まとまった形で自分の意見を書いた。また、それ以上に、わたしを「ウィキペディア」の中の人と呼ぶ方がいる以上、自分の立ち位置について一度きちんと表明しておく必要もあるかな、と思ったので、今回は自分のブログで公開することにした。

プロジェクト内の方からもそうでない方からも、ご意見を伺えれば幸いである。

追記:はてなブックマークやコメント欄での反応へのお返事をまとめました。
「ウィキペディア日本語版と私」へのコメントとお返事 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

*1:いま調べたらどうも50はくだらないらしい、grep がないので手で数えて、途中で断念した。

*2:日本語版、英語版、ドイツ語版、イタリア語版、フランス語版。

*3:日本語版と英語版。

*4:日本語版でないのは、著作権法などの理由で、好きな作品から好きに引用するというのが日本語では現状難しいからである。

*5:Britty はその名前でアカウントが取れるとは思わなかったのですよね(実はその時点では取れたらしい)……。なお Britty は Britomartis から来ていて、Aphaia というのは Britomartis と同一視されることのある神格なので、両者は同じものをさしているといえなくもない。ウェブサービスによって片方が取れたり取れなかったりするので、適当に使い分けております。