お別れしたいって云ってみたら

自分があまりにも典型的な「男親」を求めていることにショックを受けましたが、気づいてしまって以来、彼との将来を考えることができなくなりました。彼の長所であった女性らしさがすべて、伴侶としての欠点にしか見えなくなってしまいました。

彼は何も変わっていない。それは悪いことじゃない。自分の事が何も見えていなかった私が悪いんです。結婚とは何か、そこに自分が何を求めているのか、真剣に考えないまま前に進んでしまった私が。

私達は来年、離婚します。

女装子の嫁

トランスヴァーサタイルな夫と結婚して、それは不満ではなかったのだけど、一緒に子育てをする相手としては考えられず、最後は離婚を選んだという方のお話。

むかし夫だった人*1とした会話をふと思い出した。その頃新聞の朝刊で瀬戸内寂聴が連載をしていて、その中に不倫関係にある主人公が愛人の男に別れようというと「絶対に嫌だ」と泣きつかれて結局関係を続けるというような場面が出てくる。それでわたしは何の気なしに当時夫だった人に向かって「お別れしたいってわたしがいったら、どうする?」と尋ねた。

彼は少し間を置いて「そしたら、お別れする」と答えた。もう一度訊き返すと、「……が、それが一番いいと思うんだったら、お別れする」と答えて、もう彼が泣きそうになっていたのがわかったので「ごめんね、もう云わない」といって抱きしめたら、ようやく彼も笑顔に戻った。

当時ちょうど、友人達がヨーロッパに長期留学していた頃で*2、留学はしないのと彼が何度か訊いた。向こうにいってから離婚した人も、直接の知人もそうでない人も含め何人かいた。そういう時期だったからの会話かもしれない。偶然の一致なのか、留学がきっかけになったようにして離婚した留学生はみな女性だった。

カトリックではいまでも教会としては離婚を認めてないらしい。婚姻は神の力で男と女を結びつけることで、秘蹟だからだ。いっぽう東方正教会では離婚を認めてはいる――そう気軽に出来ることではなくて最後の手段に近い。あまりにも破綻してしまった婚姻関係を継続することは、かえって結婚の尊厳を傷つけるというのだ。そうして離婚した信者は、領聖(西方でいう聖体拝領)停止など重い処分を受けると聞く。聖職者なら聖職の資格を失う(東方正教会では妻帯者も聖職に付くことが出来る。聖職就任後の結婚は禁止されているが)。古代の条規(使徒規則)などでは破門された信者は3年間は教会の建物そのものに入ることも許されなかったといい、最近はそこまでのことはないようだが、やはり世俗で受け止められているよりはさらに重い違反とみなされているらしい。

身近には離婚したことで自由になり新しい人生をしっかり歩いている人もいて、だから離婚するなとは云いたくないのだが、結婚する前にしっかり相手を見ることは大事なんだなと改めて思う。

独り身の方も、いま二人でいる方も、よい年をお迎え下さい。

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関連エントリ:

*1:7年前に死別。

*2:ありがちなのが、最初ロータリーでいって翌年DAADとか国費系の奨学金を取り直して都合2年以上滞在するというもの。