崩壊する国家

その年の夏、イラククウェートへ侵攻し、そうかと思えば*1ゴルバチョフ大統領(当時)が誘拐されるも数日後には解放され、世界は騒然としていた。秋になるとゴルバチョフソ連邦を解散すると言い出し、それもその年の年末を以てというのだから急な話で、とはいえ私は卒論の準備でてんぱっていてあまりニュースを真面目には追っていなかったので、その間の細かい事情は覚えていない。

17年前のことだから、ネットワークというものは我々文系の学生には縁遠かった(すでにJUNETが解散していたくらいには、広域ネットワークというものは実は普及していたらしいのだが)。それで我々の情報源は、口コミでなければ、新聞かTVか雑誌か、あるいはそれらの中吊り広告が主であった。わたしは大学へは電車で通っていて、週刊誌の中吊り広告はその週の重要なニュースを手際よくまとめてくれていたので便利に思った。たまに夕刊紙やスポーツ紙を網棚で拾うことがあって、そのときにはいろいろな記事を面白く読んだ。マスコミというものに、まだ皆が信頼を置いていた、そういう時代だった。

当時、テレ朝の深夜では放送終了時間まぎわにCNNをやっていた。その日の分の勉強と原稿書きをひとまず終えて、クールダウンがわりにガトーショコラを作って、焼き立てのまだ粗熱が残るガトーショコラを食べながらその日に書いた分のプリントアウトとそれまでの分をあわせてチェックするのが私の日課だった。それがちょうどテレ朝版のCNNの時間だった。米国のローカルな話題を除けばソ連情勢や湾岸情勢が主な話題だった。そのあと朝刊が届いて、朝刊を眺めてから眠るという微妙にずれた生活時間で私は暮らしていた。とりあえず単位が必要な授業に出るには不都合がなかったのは、そもそも所属の研究室の講義はゼミで発表すれば単位をくれるところがほとんどである上に、午後遅い時間割のところが多かったからかもしれない。ともかく、その変則な生活時間のおかげで、わたしは卒論を書くという割合に逼塞した生活のなかでも、不思議と時事には通じていた。そんなわたしであっても、卒論を出す二週間前――ということは年末年始をはさんで一週間づつ――は、新聞を読んだりTVをみるような余裕はほとんどなく、というわけできっと中継があっただろうソ連最後の瞬間の赤の広場の映像などは残念ながら私の記憶にはない。

なんとか卒論を出してしばらくあと――ほんとに提出期限ぎりぎりで、タクシー代が5千円も掛かったのだが、それはさておく、とある先輩の話をきいた。その先輩もちょうどその年に修論を出したのである。大学から数駅離れたところに下宿していたその先輩は、修論提出のために、しばらくぶりで電車に乗った。すると先輩の目に、ある中吊りの文字が飛び込んできた。

ソ連崩壊後の世界

先輩は驚愕した。

先輩はソ連が解体するということ自体をそのときまで知らなかったのだ。

ソ連の解体自体は、10月あたりにすでに全世界へ発表されていたにもかかわらず、である。

おそらくその頃、あるいはそれ以前から、先輩は新聞もテレビも読まず、また単位は足りていたのだろうからあまり大学にも来なくなっていたのだろう(まあよくあることではある)。そのために、ソ連邦解体のいかなる兆候も先輩のところへは届かなかったのであろう。ともかく、驚きのあまり、大学の最寄駅まで先輩はずっとその場に立っていたそうである。

「俺に黙って崩壊するなんてひどい!」と先輩は怒ったそうだ。そんなことをいわれても旧ソ連の中の人も困るだろうが、ていうか、それを知らないのはさすがにどうなんだという気もするのだが、しかし、あの世知に通じていそうだった先輩にもそういうことがあるのだと聞いて、妙にほっとしたのを思い出した。

Inspired by:

*1:b:id:lakehillさんの指摘により訂正。こちらは90年の話。いま調べたら湾岸戦争は91年1月から3月だった。ううむ。