私は光源氏が嫌いだった

はじめて源氏物語を知ったのは与謝野晶子訳だったような気がする。母親がもっていた、現代語訳の日本古典選集みたいなものがあって(筑摩書房あたり)、それに収録されていたのだった。夏休みの最中に突然引越しが決まって、その荷物の出し入れで奥にしまいこまれていた本が幾つか出てきて、学校がはじまるまでの間の暇をなぐさめていた。

源氏物語というものがあることは知っていた。小学六年生のときだから、あるいは学校で歴史の時間に習ったのか(当時、小学校の六年の社会は、公民と日本史を混ぜたような内容だった)、それとも別の本で読んだのか。与謝野は随分とすでに古風な文体ではあったが、それほど抵抗なくするりと読むことが出来た。ただ、やはり、宇治十帖などは複雑に過ぎて、その面白さがわかったのはだいぶん後になってからだった。

それで、話は波乱万丈で、いくつか贔屓の登場人物も出来て、たいそう面白く読んだのだが、わたしは主人公であるはずの光源氏が好きになれなかった。というより嫌いであった。主人公にまったく感情移入の余地がない小説をそれでも最後まで読ませたのだから、紫式部与謝野晶子の文才はまことに偉大である。だがまあそういうことはどうでもいい。とにかく、これほど弁護の余地がない主人公というのは私の読書人生――ってその時点ではたった10年足らずということをおいても、はじめてであった。

「桐壺」はまだよい。あれは源氏はかわいそうな王子様で、ていうかあの帖の主人公はどうみたって桐壺だと当時のわたしは思っていて、愛しているといいながら結局は何もしない桐壺帝に薄い疎ましさを感じつつ、遺児である二の宮のちの源氏にいちおうは同情を寄せていた。というよりこの時点では台詞もないので、好きになるならないという問題ではない。さてそのつぎ、18歳だかになった源氏が出てきて、まあ雨夜の品定めはいいとしよう――ああいう惨ないものを読んで育っても人間は恋愛に希望をもてるのだということを、いま思い返して私は悟った。まことに子どもの可塑性は偉大である――次からもうなんというか救いようがなく源氏はわがままで酷薄で性的に放埓というよりは権力者の傲慢さを剥き出しにして、彼の「恋愛事情」が描かれるたびに、そのあまりにもいい加減でだらしなくて場当たりな行動に十一歳の私はげんなりした。だから「須磨」で奴が西国に蟄居したときには正直ざまあみろとすらおもった(私はどちらかというとあの気の弱いおひとよしの朱雀帝がすきなのだった)。

ひどいこといっているだろうか。当時と違っていまは作劇上の必要性ということをある程度意識することもできるし、源氏という人物像のよさ、まめやかさというものも多少は分かっているつもりだが――花散里を夕霧の養母にするところなんかは結構好きだ(そのあとの夕霧の感想はまたなんとも惨ないものであるけれども)、だけど、源氏物語の前半の光源氏の素行というのは、今の世であったら少年院送りになっていてもしょうがないような行為であろう。他人の家にいってそこの家の女性を強姦するとか、他人の家にいってそこの家の女性を略奪して死んだら死体は放って帰る(まあ部下に処置はさせているが)、元の家に連絡もしやしない、幼女を誘拐してひっそり育てて手ごろな年齢になったらやっぱり強姦する、もうなんか書いていて嫌になったのでやめます。当時はそれがあの身分の人になら許されていたのであろうけれど、でもやっぱりなんだかだよねえ。

村上春樹の作品が比較的好きだったときでも、あのあまりにも受動的でいてそれでいて据え膳は絶対逃さないすっぽんのような性欲をもった主人公どもに、わたしはなにともいいがたい違和感を感じていた。『ダンス・ダンス・ダンス』と『ノルウェイの森』で読むのを一度やめたのは、おそらくそこに原因があるのだろう。数年前、『海辺のカフカ』でやはり違和感を感じつつもふたたび村上を読むようになったのは、そこで村上が意識的に明確な形で暴力を書こうとしている方向性を感じたからである。だけれども、それは村上が自覚しきれていない彼自身の権力性を(それは性と他者性としての女性性を書くとき、殊に顕になるように思われる)是認するということを意味しない。だからいま、わたしは自分を彼の愛読者だとは感じていない――彼の小説で自分が読んでいないものはたぶんもうないのだけれど。それは愛読というのとはまた違う別のなにかである。

とはいえ、村上は日本文学の正嫡ではないかのような、ときおり聞こえてくる言説を私は諾わない。むしろ、彼は古来からの、権力をめぐる性のありかたに周到に焦点づけした修辞の体系としての日本文学の系譜に位置しているのではないかとすら思うこともある。性と権力が野放図に繁茂し、その結びつきが野合としてではなくむしろ祝福された結合として描かれた源氏物語の世界と、幻想の世界を経由しつつ権力と性が緩く絡み合っている村上の世界は、さほど遠くないものであるようにわたしには思われる。そうして、その根底には、両作品ともに強固なマチスモの肯定があるようにも感じられる――あるいは、それがわたしが源氏を、そして村上作品を留保なく愛せない理由のひとつなのかもしれない。

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