おへんじにかえて

ブログをしていると、コメントやメールをいただくことがあります。

コメントを承認制にしたあと、ぽつぽつ「私信ですので読んだら消してください」というご指定のあるコメントをいただくようになりました。情報を教えていただいたり、心情を打ち明けてくださったり、いろいろです。ご要望ですので、それは読んだらただちにブログ上からは消します。ですけど、やはりいろいろな思いがあとに残ります。

うつ病の夫をもって、夫が自死したこと。自分がそのあと死別反応に数年苦しんだこと。そのあと性犯罪の被害にあってそれで抗うつ反応がさらに悪化したこと。あるいは両親が新宗教エホバの証人」の信者で、そうした家庭で育って意識的に自分をその世界観から切り離してきたこと、いろいろなことを書いてきたせいか、似たような歴史をもっている方から、こういうことがその方にあって、ということを伺うことがあります。

ほとんどの方は、メッセージを寄せることが迷惑になるのではないかなどと、逡巡しつつ、あるいはわたくしがフラッシュバックを引き起こすのではないかと気遣いつつ、コメントを残されていきます。あるいはメールをくださいます。しかしそれでも書かずにはおられなかった切迫な気持ちが顕わに文から読み取れます――そのように思います。それは、その方にとって、そのとき、そのようにして云われなければならないことなのだと思います。わたくしも、そうでした。

自分の身に起きたことを、言語化することで、わたしたちは癒えていくのであろうと思います。ですので、気を楽にもってメッセージを残してくださると、わたくしもすこし嬉しいです。自分がものすごく人に負担を残していたという意識が、ちょっと薄まるので。

わたくしもそうだといいましたのは、あるいは mixi で、あるいは掲示板で、ときにはメールで、電話で、あるいは直接会って、そういうわたくしの述懐を聴いてくださった方がいたということでもあります。辛抱強く、わたくしによりそって耳を傾けていた方々がおられた。そういうみなさまの温かい友情と愛情なしで、わたくしは今日まで永らえることはなかったとおもいます。何もまだお応えできないことが心苦しいのですが、それでも感謝しているということをお伝えしたいと思いました。

ときには、というよりはしばしば尖ったことばも混じる拙いブログですが、そういう文の書き手を信じてことばを託していただけたことを嬉しくまた誇りに思います。ただ、そのことばをいただくわたくしは未熟で、そういう重いおことばをいただいて、つねにお返事を差し上げられるわけではありません。あるいはお返事を望んでおられないのかなと思うときもあれば、自分でなんだか気持ちがいっぱいになってことばにうまくならないこともあります。そういうときは無理にお返事しないことにしています。そのことにご理解をいただきたく、でも負担に感じているわけでは決してないことを云いたく、このエントリを書きました。

わたくしのお茶の先生があるときわたくしにいいました。「ゆっくり生きな、あかんで。人のためになることをせな、あかんで」――人のためになることを出来ているのか、それは心もとないのですが(たぶんだめっぽい)、まずはゆっくり生きていくことを心がけたいと思っています。それが逝った人に私が出来る最大のことだろうとも、思います。

わたしたちは、長生きして、幸せになりましょうね。