fj.news.usage を超えて

はてな村」とか「はてな論壇」といわれるものと、意図したわけではないけど今まで関わることはなかった。そういうメタな議論というのはある程度時間を割いて量を読んでいなければ出来ないし、私は単純な罵倒というものが苦手なので、「死ねばいいのに」とかいうタグが付いていると跨いで通り、さらにそういった永遠の神々の闘争と出会う機会は減ってくる。

だけれど偶然に目に留まった論争があって、少し気になった。というよりホットエントリに始終入ってくるものだから、追うつもりはなかったけれど急速にぐだぐだになっていることだけは分かった。しかも最初はそれなりにまともなことも言われているように見えたものだから、後というか最近になってからの泥んこプロレス振りが余計に鼻についたんじゃないかな、と思う。しかしそれは今の本題ではない。

最近、fj で知っていたある人と、というのはその人が偶然いま近所にいることが分かったからなのだが、食事をした。食後にコーヒーを飲みながら、いまのネット上のあれこれをお喋りの種にして、「むかしはあれを所属・実名付きでやったんだから今考えるとすごいよねえ」という話をした。そしてまったく同じ台詞がおそらくは違う人から出てきたので、おやと思った。

2008年08月26日 id:isikaribetu07 [揉め事] かつてのfjでは所属付き実名で壮絶なケンカしてたりもしたがなあ。まあ時代が違うんだけど……って10年くらいしかたってないぞ。

はてなブックマーク > いい勉強させてもらいました - HALTANの日記

10年前というが私の感じではすこし違う。境目はむしろ1994年から1995年のパソコン通信の人たちが fj.* を購読するあたりからではないかと思う。そこで実名を使うこと、From: のコメント欄にも明記することという暗黙の行動規範が崩れたので、フレームがしょっちゅう勃発していた。10年前、1998年ともなると、fjにももうかなり匿名を使いたい人が出てきていて、実際に何人か匿名の人もいた(蔑まれることと引き換えにしてであったが)。話を戻すと、私とその友人とは、fjのあれこれを思い返しつつ、実名であることは何も行動の抑制の担保にならないということで同意して、今の匿名実名論はそこがちょっと楽観的過ぎるよねえ、という話をした。

実名を書くという伝統は、別に fj.* がそうだったのではなくて、USENET もそうだったし、ネットニュースを出ても finger を掛ければ職場の内線から出勤時間から分かった、そういう時代の話で、The Net につながっているサイトとサービスは多かれ少なかれそういうものだった。あの Canter & Seagel ですら、ってそれは商用行為だからかもしれないが、実名でやっていたといえば実名でやっていた。USENETでそれが崩れたのは日本より少し早く AOL Shock の後だったが、いまでも実名でやっている人は実名でやっている。それは fjであろうと Big 8 であろうと変わらない。たんにコミュニケーションの場の性格の違いというだけのことだ。匿名の社交場と顕名の社交場と両方があってよい。それは値切りが忌まれる同人誌即売会とそうでない即売会がありうるというのと同じようなもので、たんに文化の違いである。公共性のある場所がどちらであるべきか、とりわけ代替となるものがない場合には、というのはそれとは異なる問題で、私自身はいまのところ答えを持たない。ただ世の中には、思想のために政治犯とされている人や、ネット内外でストーキングされている人など*1、どうしても匿名であることが必要な人というのがいて、コミュニティの性質によりけりだが、実名のみというのを普遍的な原理とするのはつらいかなあとは思っている。閑話休題

所属と個人の関係ということもまた古い議論である。1990年代後半、まだ所属を書くのが一般的だった fj で、所属を書くのは権威付けであるというようなことを言い出したこれは商用プロバイダからだったような、そういう人もいて、いったい何を気にしてるんだと我々は驚きあきれたのだが、今回のはてなの論戦では、一方にいる方が「アカデミズムの中にいる人がそんなことでいいのか」というようなことを言うのを見て、そうかあ所属信仰ってのは根強いんだなと改めて思った次第である。

当のフレームに格段意見はない。古典的なフレームの諸相を改めて望見し、言い知れぬ懐かしさを覚えた――それは私が夫とともにいたもっとも幸福な時代の小さな棘のようなものである、ゆえに懐かしい――ただそれだけのことである。余談だが、だからもうこの先は特に読まなくていいだろうと個人的には感じる。フレームの場合結果のバリエーションはそれほど多くない。すべてのフレームは基本的にいつか熱的死を迎える。それに付き合うほど、私の人生の時間は、たぶんもう多くはない。

とはいえ一点だけ気になったことがある。一方にいる方が、ご自分が悪いといわれるばかりで相手も悪いといわないのはなぜかということを気にしておられたのだが、そんなことはない、そうと取れる言説は複数ある(中の人がどういう方か、合計で何人いるのかなどは気にしない、どうせ検証できないのだ)。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080819/p1

ここのブクマタグは、見ていてもう、はてブが嫌になった。

自分はどちらかというといままで「はてサ」と言われている人たちにシンパシーを感じていたのだけれど、でもこのid:hokusyu*2の「脳の失敗」というタグだけは、これはつけちゃいけないタグだと思う。前からこのhokusyuはネガタグてんこもりのブクマで、折角リベラルな良識的な意見を他の人たちが書いていても、その流れで対立する相手に対して罵倒を浴びせると、「はてサ」でくくられている人たち全体のイメージが悪くなるんじゃないかと心配していたんだけれど、「脳の失敗」というのは本当に、もう限界を越えたと思った。

そりゃあはっきり言えば、id:HALTAN*3の学歴に絡めた嫌味とか、普通の状況なら酷い言い草かも知れないが、これまでの流れを見ていると売り言葉に買い言葉で、度を超えた罵倒表現をエスカレートさせてきたのはhokusyuの方だと思う。……

「脳の失敗」タグには呆れた - はてな匿名ダイアリー

誰か間に入ってくれないかなって、誰も入らないに決まってるでしょうが(笑)。話聞かないんだから、hokusyu氏は。相手悪すぎ(笑・笑)……

誰も間に入れません(笑) - zoppo03の日記

すでに2エントリ「hokusyuさんも良くないとは思う」という意見表明がなされていて、しかもそれは後だしジャンケンではない、どちらもこのエントリ*4以前に書かれている(8月23日と24日)。この方はいったい何を望んでいるのだろうか。

一日一チベットリンクTibet’s most famous woman blogger, Woeser, detained by policeThe Times, 8/26. チベット人女性作家ウーセル氏が、ラサに帰省中、特に撮影禁止でない公共の場所で写真を撮影したところ逮捕された、との報道。ご夫君の談話がある。

*1:後者はウィキペディア英語版では深刻な問題になっていて、自宅や職場などに嫌がらせを受け、プロジェクトから離れる人も複数出てきている。

*2:無意味にTBを飛ばしておりました。お詫びして抑制申し上げます。

*3:同上。

*4:8月25日の日付。

聖人を拝む?

mixi で「教会内で聖人と認定された人を拝むのはキリスト教では構わないの?」というような質問をいただいた。そのお返事。

聖人というのは「拝む」=崇拝の対象ではないのです。崇敬の対象として敬う対象ですけれど。それで聖人への祈りというのはかいつまんでいえば「○○さん、わたし[たち]のために祈ってください」というものです。神への祈りとは根本的に違うんです。

それで、キリスト教徒はわりあいと気軽に「どうかわたしのためにお祈りください」ということをいいます。生きているもの同士でです。聖人にそれをいわば話しかけるのが聖人への祈りです。なんで永眠したなかで聖人だけそういう祈りの対象になるかといえば、それは教会=信者の共同体が「この人はすでに天国にいる人だよね」という確信をもっているからで、そうでない方はおそらくそれどころではないので、今度はわたしたちのほうでそのかたがたのために神の憐みを祈ります。生きている方と永眠された方と、どちらもあわせて祈ったり祈られたりする共同体の仲間なんです。

……というのが聖人崇敬なので、「拝む」わけではないです。

なおプロテスタントの聖人崇敬にはだいぶ濃淡がありますが、一般にはご指摘の通り、プロテスタントは聖人への祈りということをなさらないとおもいます。

もっともこれも怪力乱神の類で、信仰のなかでだけリアリティをもつものだから議論になじむというものではない。たんに私はこう考えているし、それは他のクリスチャンと願わくばそう遠くないだろうというだけのことである。