deus odities 何もしない神
靴屋やルターの神の沈黙は過酷だが、シベリアの何もしない神はどこかおちゃめでよい。エリアーデ、上掲書、二八頁。イスラエルの神は安息しているといいつつ、人間界に始終介入する。論文書きあがった後にシムシティやワードナのダンジョンに没入するというのは、人が神の象りである証左なのだろうか*1(違)。
地獄が火の燃えるところではなく、基本的に沼地や海というところが北ユーラシアの地域性を反映して素敵である。ヴァナキュラーなものを失った思想、ことに宗教思想というのは逆につまらない。話が飛ぶが、「空間に住む」というSF作家・森岡浩之の表現はこの点で巧い*2。墓が家であり家が墓であるというのも良い。東方正教会の修道士がヴェール付きの帽子を被るのは、あのヴェールがそのまま棺のかわりになるからだ。地上において衣以外に何ももたない彼らは、死してもやはり衣以外のものを持たない。いわば彼らは墓をつねに携えているのだ。それは彼らに限らず人間存在の基本様態ではあるけれど。関係ないけど同行二人。やはり四国に出かけて見ますかね。
Eliade, op. cit. pp.34-35.
マリア・ギンブタスはこう言っている。バルト諸民族の民間伝承の、キリスト教化以前に遡る起原は「たいへんに古く、確実に先史時代まで、少なくとも鉄器時代にまで遡る。そのうちあるものについては、さらに数千年以前からのものと思われる。*3」
誘惑者研究のT村先生が「スカンディナヴィアはなにしろ古代がないですから」といっていたのを思い出す。11Cかくらいまで鉄器時代が続いて、キリスト教化とともにいきなり中世に突入。ってスコラの最盛期ですね。スウェーデンのルター派に残存する異教性*4はカトリックに由来するというよりは、ゲルマンやゲルマンよりさらに古いユーラシア人のものなのか。ところでフィンランド*5の宗教分布ってどんなのだっけ。