重力

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040412#p7

何度も言うけど、親の金で楽しく人生を謳歌している裕福な人たちが嫉妬されないって、どういうこと? なんで、陰湿に苦しんでいる人間が嫉妬されイジメられ、陽のあたる王道を親の金で歩いている人間は讃美さえされるの?

ルサンチマンの典型。これは支援者を自ら減らしていく態度だ。運動家として立つつもりなら、こういうことを書くのは逆効果。自分の苦しみを大声でいう人間はしばしば攻撃される。これはたんなる経験的事実。残念ながら、人間の感情には「自分より苦しい人」をみて自分を慰めるという劣弱な側面があることを私は否まない。同時に、若くして地位に恵まれて「幸運な」職業生活を*1開始した友人たちが、陰険な陰口を叩かれているのもあちこちで見ているので、その認識は短絡的に過ぎよう、と指摘する。
親の金で暮らしている人間がみな「裕福な人たち」なのでもないし、まして「楽しく人生を謳歌している」わけでもない。裕福で知性と容姿と友人に恵まれて、誰からも愛されながら、過酷な人生に翻弄されて心に深い傷を負う人を私は何人も見てきた。しかし彼らはあえぎながら、必死に誠実に、彼らの人生を生きている。そしてその傷を負いえるのが自分だけであり、状況がまったく影響していないわけではないけれど、最終的にそこへ自分を連れてきたのは自分の自由な選択であることを受け入れている。そしてよほどのことがなければその苦しみを人に訴えて同情を求めたりはしない。人はそれを「責任ある」大人という。彼らは大人だから他人にやさしくなれる。一緒にいてなごむ。I am OK, you are OK.ってやつだ。そう、生きることを楽しむことを知る彼らとともにいるとき、私は自分が、そして友人である彼らがここにいまこのようにあることを無条件で肯定することができる。
私はここで個人の名を挙げることはしない。私は彼らが好きだし、彼らが私を友人とすることを恥じないことを誇りに思う。だが社会的身分ゆえに私が彼らに追従すると思われることを私は拒む。これが虚栄心であることを私は認める。しかし、その虚栄心ゆえに彼らの名を挙げることはしない。
そう、身分の問題ではないのだ。彼らがその人格において真に尊敬すべき個人であり、たとえことごとくの点で私と彼らが意見を共有しえないとしても、彼らと語らうことは私の楽しみであり、彼らが安全無事でいることが、私の歓びだから、私は彼らを友人と呼ぶ。
「ひきこもる」人々に私は同情と憐憫を感じるが、しかし彼らの痛みを私は負い得ない、まして彼らの存在をありうるものとして尊重し認めつつも、「自己を示さない・知らない他者」に共感したり尊敬することはできない。苦痛を訴えて同情を呼ぶことはできよう、しかし尊敬を得ることはできないだろう。そしてこれは私の信念だが、尊敬のないところに友情は育たないだろう。まして上に引用した−これが仮構されたものか、ある個人の心情の吐露なのか、私は知らない、また興味ももたない−ルサンチマンについては、それはもはや私とは縁のない感情であり、そのような毒を引き受けられるほど私は人格者ではないため、あえてそのような人と交わりたいとは思わない。いや、むしろこういうべきだろう。「盲人の手を引くことは出来ない、私もまた盲人だからだ」。
これで答えになるだろうか? なお、この件について深入りする気はないので今後よほどのことがなければ、続きを書くつもりはないことを言い添えておく。

*1:もっとも彼らがなぜ過労で倒れないのか、私には不思議でしょうがない。