普遍打倒の夕べ

打ち上げなのかクラスコンパなのか、H下先生「我々は敗北してるね」敗北していることを先方は気がついてもいないだろうところにさらに敗北感。エウゼーンと生命美は違うということを実感。ミン先生「韓国と文化が違う」韓国だと聴いてもらえるかどうかは別として誰かが止めにいって、喧嘩になる(そしてたぶん激しく喧嘩する)。そして翌日にはけろっとしている、とH下先生が補足。一気飲みは韓国にはないのか。
他人を見て若いとしみじみ思う我々はもはや若者ではないと自己省察した後、「彼らは我々の後輩ではない」ことに気がついて安堵する。

非常勤とはいえ国立大学の講師がコンビニでバイトしてるとは誰も思わないだろうな、私も驚きました。「いろいろな人の生態が見られて楽しいのでは」「ぜんぜん楽しくない」そうかね。世間は我々をどう見ているのだろう。「高等遊民」高等以前に遊んでない、「田舎行くと遊んでいることになるんだって」と一蹴される。そうか田舎の人なのか。小人scholeして論文を書く。遊戯衝動。低等遊民といわないのは、遊びがそもそも高次のものであるからか。
ギリシア語で遊びってなんだっけ orz Paideia なのか。Jaeger本、宿題。

引きこもりの人にルサンチマンですねといったら「侮辱」だと思われた話、やや受け。T高氏「(r. って)哲学の基本じゃない(w」……まあ確かに。我性に死ぬって発想はそこで出てこないといったら、某氏が「それができるなら最初から引きこもりになんかならないって」それは保留((そもそも「自己表出」している時点でもう「引きこもり」とはいえないのではないかという意見もある。収縮することと外界を観る事とは原理的に同時的ではありえないのではないか。))。普遍妥当性要求ということで。ソクラテスルサンチマンだったのか。キリストは、でも、哲学者じゃないような。預言者は故郷に入れられず。教育が不可能でも陶冶は可能だ。というか個人は個(Mナド)だからG.は範例的、自己開化は出来ても教授は出来ない。でも隣を見て学習するんだよな、ってそこで見られているのは技巧的技術と同時に「開化可能性」なのか、なるほど。