故宮博物院

というわけで、終わって翌日、故宮博物院へ行ってきました。宿からバス一本でいける場所だったのは幸運。そんでもすぐには出られないで、結局午後からになりました&半日では案の定回り切れませんでした。しかも飲茶やなんかで都合1時間くらい使ってるし>自分

昨年リニューアル開館して、いまはほぼすべての展示室が開いています。一日では回り切れないなと判断して、青銅器・陶磁器・書画に絞りましたが、書画はあまり出ていないのであった。特別展示で朱熹周易を臨書したというなかなかめずらかなものを見られたのはよかったです。朱子学というとなにかとても型にはまったような気がしてしまうのですが、書自体は非常に雄渾な、また闊達な、気迫あふれる造形でありました。ん、でも、それでいながら丁寧に書いている趣はあったな。殷の青銅器や北宋汝窯などの定番もさはさりながら、明中期のアラビア文字を取り込んだ(皇帝がムスリムを信仰したとか)陶磁器の意匠など、珍しいものが見られたのも面白かったです。展示をみていると、日本ではさほど好まれない琺瑯などの技巧的な作品に人気があるようなのが、面白いとおもった。

あと、これはよくいわれることですが、住友コレクションや安田コレクションってたしかに故宮のコレクションに見劣りしませんね。どんだけ良品が流出しているのか空恐ろしいものがあります&たぶん北京の故宮博物院がそうであったように、「知られざる名品」というのがあの国にはごっちゃりあったんでしょうね。中国四千年おそるべきかな。

名前の通り美術館の外見は故宮のレプリカで、それもご丁寧に向かいの山に同じ仕様の楼閣がおそらくは景観のためだけに作ってあったりで、さすがに国民党のショーケースとして作られたという感はいなめませんでした。4Fのレストランで山並みを見下ろしながら飲茶をするのはなかなかよい気分なのですが、この高所からの視線の悦楽といういわば論理以前の快感が、ナショナリズムと無批判に結びつくのは怖いと思った。ここだけでなく、本来は台湾のものかどうか疑わしい「中華文化」の伝統と快適さが政権の正当性に媒介なく接続してくる、そういう誘導があるように思います。というより、中華文明が台湾にとってはつい数百年前までは完全な外部であり、その後も台湾は周辺でしかなかった(化外之地とまでいわれていた)ということへの眼差しは、改築後の故宮博物院にもありません。あくまでも中華文明の美術工芸の粋を称揚する域を出ていない。若干考古歴史展示もあるんですが、それもあくまで大陸の歴史です。そのような、いわば無媒介な接続が民主化されたいまでも国家的事業として営まれるということにはすこし昏い気持ちが致します。いまの故宮博物院だけでなく、台湾全体に公共の場での露骨な政治宣伝はないようなのですが、だからといっておのがナショナリズムについて十分に意識的な批判がなされているかは別の問題でしょうし、また巧妙に隠蔽されているのかもしれません。まあ、勃興期にある国というのは、そういうものなのかもしれませんが。

庭が3つあるのですが、全部は見学できず。館にいちばん近い庭だけ訪れました。蘭亭を復元したということで、そういわれるとなにやらゆかしい気もいたしますが、しかしレプリカであることに変わりなく、亡命政権の悲哀ということも少し考えさせられました。悲哀っても国民党政権が殺害した政治犯は40年で都合4万人ともいわれてるそうなんでけどね。そういや蘭亭といいじょう、王羲之の書をみてこなかったような(同じ時期にいった友人によると、ひとつ出ていたそうなのですが。むーん。)…… orz

特別展示には、コンピュータやビデオを使ったインタラクティブな視聴覚教材もあり、年少者にも配慮した展示であると感じました。もう少しインタラクティブな要素、触れる展示など増えてもいいようにおもいますが、この点では日本よりさらに一歩北米の美術館に近いようにも思います*1。日本の美術館では比較的多い、糸底をみせる展示に乏しいのは、あれは糸底みるというのが茶の趣味から来てることにもよるんでしょうか。故宮でもまったくないわけではなくて、記年銘をみせるために写真を出してある場合もあるのですが、糸底を鑑賞する、というのではなかったようにも思います。やはり高麗趣味というのは、日本の文化なのだなと、改めて感じました。

故宮は3ヶ月おきに展示がえをするそうですので、秋になったらまた行きたいと思ってます。

*1:ヨーロッパは触れるところはあまり多くないし、視聴覚設備の導入もそんなに一般的でもない。