悪意と希望

列王記にいう。預言者エリヤは地震のあと、嵐のあと、静かに囁く声を聴いた、それがヤハウェの声であった、と。暴風の騒擾に心乱されることなく、ひそやかに真実を語る声を、聴くことが出来るように、私もいつかなりたいと、ことに最近思うようになった。

呼ばわる声の大きさは、必ずしもことの正しさと関係ない。ことにそれが悪意をもって発せられるときには。

そんな悪意の副産物として、といってもいいかもしれない、以下のブログに行き当たった。

某ネガティブ粘着ブログ管理人らによる執拗な松永英明攻撃は激しさの度を増していた。連日連夜の彼らによる粘着により、私は神経をすり減らしていった。今から思えば、私は確実に鬱状態に追い込まれていった。

id:matsunaga 備忘録ことのはインフォーマル「いままでのあらすじ

いまはだいぶよくなっておられるようだが、まだ寛解ではないらしい。どうぞお大事に。

私も同じようなことに何度かあって、酷いときには外出もままならないほど精神的に追い詰められたこともあるので、そのお気持ちはわかる気がする。どれだけひどくやられたかというと、年に一度の、もっとも楽しみにしている復活祭に出席できないほどであって、そういうときには心が弱っているので、かえって旧来の友人たちと連絡を取ることもなにか物憂く、年賀状を頂いたままにして返事をしなかったことも数度ならずある。出すといった原稿を結局出さずに編集委員の方にご迷惑をおかけしたこともある。そうして不義理をすると、いくら相手が優しい方であっても、いっそう次にお会いするのがつらくなる。悪循環である。

夫が健在であれば、二人して笑い飛ばせば済んだことかもしれない。私が最初にいわゆる「粘着」をされたのはF県のプロバイダ*1の社長S氏であったが、このときは被害にあっていた者が数名いて、ていうか私の所属組織および関係のあるところになぜか被害者が固まっていて、被害者同士で相談したり愚痴をこぼしたり、あるいは所属組織の担当教官である先生方にご相談して、技術的にも精神的にも鉄壁なサポートをしていただいた*2。そして気持ちに余裕が出すぎたのか、被害者の会を結成したところ、そのネーミングが不謹慎だし過度に相手を嘲笑しているということなのか「クリスチャンとして恥ずかしくないのですか」というお叱りを公開の場でいただき、これには我々もちと悪乗りしすぎたかと恐縮したのであった。*3なおメーリングリストを作ったかどうかはさだかではないが、オフ会は一度やったことがある。いまは閉鎖されていて早々入れない学校の屋上が当時は常時解放されていたので、みなで料理を持ち寄って夏の涼しい夜風に吹かれつつビールを飲んだ。なかなか楽しかったですよ。友とはまことにあらまほしきものである。

そこまで大規模なものにならなくても、愚痴を聴いてくれ必要なら助言と助力を惜しまない相方がいるというのは心強いものである。そして変な人に絡まれるということは、不思議とそういう人がいるときには起こらないものなのである。不思議だが、私の場合はそうであった。相方、といったが要は夫である。そして、これは私の特殊事情だが、夫はうつ病を患った後自死した。2001年のことである。

夫の死は私の精神に大きな傷を残した、と思う。不思議と夫がなくなってからしばらくはそれなりに社会生活を送っていて、論文を発表したりも出来たのだが、うつ状態は続き、薬なしでは一時間たりと眠ることが出来ず、だんだん発条が切れていくからくり人形のように、私の活動性は落ちていった。2003年が最初のどん底で、家にずっとこもっていて、ネットもしなければ本も読まなかった。夫がかくも追い詰められた学校という場所と距離を置きたいと思ったのも事実で、というのは夫婦ともに大学にいて周りの友人知人ことごとく研究者という環境では、学校にいけば知人にもあうし、いろいろなことを思い出しもするし、というより精神的に疲れてドイツ語の哲学書を読むような気力は到底沸いて来ないし――なにしろその年私は和書さえろくに読まなかったのである、ものを考えることはおろか、何かを見ても美しいとも醜いとも感じられない。完全なアパシーに私はいて、それで結果として家に引きこもっていたのだが、それは自発的な選択というより、たんに出来事の連鎖のようなものであった。

そこから抜けた原因は振り返ってもよくわからない。しばらく実家で休養した後、関西へ戻った。自分の問題にどれだけ直接するかはまだわからなかったが、ある自助グループに通うようになった。その帰りに、突如、本を衝動買いした。数件の本屋を回って、確か全部で3万円くらいだったろうか。月収の半分以上なのでかなり思い切った買い物ではあった。ただ、魂を死へと引きいれる重力の桎梏を振り切るにはそれだけ無謀な行動も必要であったのに違いない。数年のブランクのあと、私はいわくいいがたい引力を神秘主義に感じ始めていて、それ関係の本もいくつか買ったのだがそのなかにベーメの De signatura rerum の翻訳も入っていた。そして特に理由はなく大学へ顔を出し、そこで当時は母校の教官でいたO先生に、身内のゼミで何か発表してみないかと勧められた。その翌々週だったか、たまたま担当者がいない週があったのである。ベーメを取り上げたのは、もちろん前からある程度気になっていたからではあったが、なにか変化を望む気持ちが私の中に腹蔵していたからだろうと思う。それまでベーメなど全く読んだことがなかったのである。たまたま大学にはベーメ全集があったので、そこでやると決めたところでテキストをざっと読み、ベーメの自然哲学における可感性の重視をとりわけ彼の音楽に関する記述から掘り起こすという短い発表をでっちあげた。いま思い返すと碌な内容ではなく、後でそれを書いたPCのHDDが吹き飛んだのも、まあ特に惜しいとは思えないのだが、しかしこれはリハビリとしてはかなり効き目があった。どれだけ効き目があったかというと、その後この発表を大幅に書き直して4ヶ月後、2004年の春に文芸学研究会で発表させていただいたのだが、その過程で躁反転した。はてなダイアリーを付け始めたのもこのころである。このときはいろいろな方にご迷惑をかけた。記してお詫び申し上げる。

その後しばらく、おそらく傍目にはごく普通の生活が続いた。薬はまだ飲んでいたし、論文を書き出すほどには復活していなかったが、学会にも顔を出すようになり、このまま寛解に到るのかなと思っていた。振り戻しは突然来たのだが、振り返ると、ネットで悪意のあることを書かれたのもじわじわと効いていたようにも思う。私に直接というよりは、私の同窓の友人である、より有名なブロガー*4への嫉妬の余波という気もしないではないが、もちろん死別反応で心が弱っている時期にそういう理性的な判断が出来たわけではない。そして決定打になったのは、ある学会のあとの打ち上げで遅くなった帰り、道で痴漢にあったことである。タクシーで帰らなかった私もうかつだったのだが、月額5万5千円(当時)の遺族年金で暮らしている身では、早々そういうブルジョアな発想が出てくるわけではない。それに自宅の最寄り駅はこのあたりではそこそこ治安がいいと思われている場所なのである。それで、夜道を歩いていると、後ろからきた自転車の男に胸をぎゅっとつかまれた。悲鳴をあげると、男はそのまま自転車で去っていった。

私は夫の名を切れ切れに呼びつつ、泣きながら家までの道を帰った。ただ哀しく悔しくそして情けなかった。家に帰ったときぎゅっと抱きしめてくれた夫の広い胸を思った。そしてさらに泣けた。当時はまだ納骨をしておらず、帰ると写真の前に骨壷が据えてあって――そして、小さくなった夫の前で、名を呼びながら、疲れて寝てしまうまでずっと泣いた。10月の半ばのことだった。

その次の年、2005年の復活祭にはとうとういけなかった。行きたかったのだが、大斎もろくに守れなかったし、それだけ心が弱っていると、金口イオアンの復活祭説教の「斎せしものも、斎せざるものも」という句ももはや心に浮かばなかったのに違いない、とうとういかず仕舞いで、その年は暮れた。当時は夫が自死したことは別に身内で示し合わせたわけではなかったけれどいわないことになんとなくなっていて、というより私も夫が死没したことを、いまさらいわれるのはいやであった。後でそうではないことが分かるのだが、それは知っているべき人はとうに知っているだろうから、あえて我々を知らない人にまで寡婦であることを知られたくはなかったのである。そして私の実名がわかれば、私が寡婦であることは芋づる式に知れるので、私はこの時期、実名を広くは使わないようにしていた。ところが、前年からかかわりだしたウィキペディアではそれを逆に好んで暴きたがる輩がいて、それはすでにだいぶ参っていた私の神経をずたずたにすることになった。いくつかのものは削除してもらうことになったのだが、その削除に関しても憶測と俗悪な好奇心でいろいろなことをいう輩がいて、そのことが私の病状をいっそう悪化させた。救いだったのは、私が寡婦であることを秘匿したい、そのためにそこへつながる情報を公表することは望まないという基本的な姿勢を、ウィキペディア日本語版で削除を担当した人や、さらには Jimmy Wales などのウィキメディア財団の当時の理事会メンバーは理解してくれたし、友人として感情面でのフォローをしてくれたことである。もちろん細部については意見が一致しないこともあり、互いに神経をすりつぶすような思いをしなかったわけではないのだが、この処理に関わったすべての方に改めてここで敬意を示し、深く感謝したいと思う。

そのことがあったのが2005年の春から夏、教会にいけるほど立ち直ったのは、2006年も年末の降誕祭であった。夫がまだいたころ、私はその年にいまの教会に通い始めたのだが、最初約束したようには降誕祭にはいけなさそうだということが12月の中旬になるとわかってきた。もとより夫は21日には生命を絶ってしまうのだが、そのことではなく、仕事の進捗からみての話である。それで、その年、夫の分もろうそくをお供えする――私が通う教会では、お祈りの際にろうそくをおそなえするのである――という約束をした。そのことがあって、逆に、降誕祭は私にとってひとつの壁であった。その約束を、5年目にしてようやく果たしたのである。中央におかれた降誕祭のイコンと、もうひとつイコノスタシスの降誕祭のイコンの前に、それぞれろうそくを灯して、私が考えたのはなによりもそこにいない彼のことであった。降誕祭の聖歌を歌いながら、供えたろうそくをみながら、その灯がまっすぐに天を指すように、祈りが天に上るように、彼の魂もまた――ご意志であれば――神の御許にあるのだと、そのとき突然にはっきりと心に上ってきた。確実にそうであるといわれれば、私はいまでもまだ懐疑をもつし反発もするだろうと思う。「誰か天にあるという勿れ」ともある。ただ「誰か淵にあるという勿れ」ともいわれている――それは現世を生きるわたしたちが思い煩う必要のないことである。主は義人を知る、悪人の道は滅びん、と詩篇作家が歌ったように、それを尋ねることは我々にではなく神にむしろ属している。

ただ、神・子は全ての人を救うために聖神とおとめマリヤによって身を取り、またその死によって地獄を無にし滅ぼし給うた神であって、すでに死と地獄はむなしくされており、その大能と憐みは世世に限りないということが、そのとき突然に深い静かな歓喜とともに柔らかに広がる光のように心に満ちてきた、そのことは私にとって事実である。

それで、そのあと、薄紙を剥すように私はだんだん活力を取り戻していった。もうだいぶ前から薬はやめていたのだが、なにぶん気力までは回復していなかった。いままで途絶えていた友人との交わりもゆっくりとであるが、回復しつつある。もちろん夫を失ったことは今でも深い悲しみなくしては思うことのできないことで、毎日なにかにつけて涙することは以前とかわらない。ことに彼の誕生日や命日のある月や結婚記念日あるいはプロポーズされた月、婚約した月などは、そういうメモリアルな日を中心にだめだめである*5この後でも、すっかり元気になったつもりで原稿を書くといい、落とすという真似をして編集委員であるWさんにご迷惑をかけたり、あるいはそこでまた軽躁状態に入ってはた迷惑な言動をして某先生にご迷惑をかけたりもしている。そういう低空飛行がまだ続くのかなあと思いつつ、でもだんだんに自分がまだ当分は生きているということを受け入れられるようになってきたようにも思う。

で、昨年の頭くらいからか、あるいは夏ごろからか、夫について悪意のある噂を撒く人々が現れたのだが、やはりこれは相当につらい思いをさせられた。荒唐無稽だから気にしなくていいというものではない。悪意が向けられているということは十分人を傷つけるのである。そして私自身に悪意を向ける人もまた出てきた。ことに野田憲太郎を名乗る人の悪意はすさまじいもので、さらに自分にとって大切な人やあるいはまったく関係ない方をも巻き込んでその悪意が発散させられているということは、気をめいらせるものであった。その悪意の濃度は、主観的なものさしでしかないが、2005年に見たものと同等かさらに強いようにも思われる。ただ、自分はだいぶ回復してきたんだなと思うのは、そこで一人でうずくまってしまわずに、友人に愚痴ったり助力を求めたり出来るようになってきたことである。特に日大の高梨俊一さんと名大の大屋雄裕さんには、多忙な中、さまざまなサポートをもらい、本当に感謝している。大屋くんなどは、タシケント出張の直前、準備で忙しいときに時間を割いて具体的なアドバイスをくれたりして、ある友人の言ではないが「おおやくんはいい人過ぎる」よなあ、普通の人ならこれ忙しいからで断るよな、と skype でチャットしながら思ったほどだ*6

来月の27日、夫が亡くなってから7回目の結婚記念日を迎える。その1ヶ月前、来週のどこかでちょうど*7、夫と別れてから過ぎた時間が、夫とともにいた時間を越える点でもある。私は、どこかで自分を置いていった彼を赦せなかった。裏切りだと思っていた。だが、それを含めて、私は彼を赦したいと思う。おそらく、この先なんども、私はやはりこのことを思い出して苦しむのかもしれない。だが、いまは彼を赦したいと思うのである。私が傷つけ罪を犯した方々が私の罪を赦して下さったように、私も彼を、そして私に対して罪を犯した方々を――もっとも私は具体的に挙げる名をさしてもたないのだが――とりわけそのかたがたが仮にもそう思っておられるのであれば、赦す心を持ちたいと思う。早課の祈りにいう、「我を愛するもののために祈り、憎むもののために祈る」心を、私もまた持ちたいと、願っている*8

*1:今はもうないらしい。

*2:このとき某先生の第一声は「うちはそんなへたれな(=攻撃に屈するような)サイトやないで」であった。いわゆる山葉事件はこのあと起こるのだが、まあ学術サイトと企業サイトの差はあれ、私は単純に人に恵まれたのだと思っている。

*3:ちなみに私は洗礼を受けておらず厳密には今でもクリスチャンではないのだが、もうひとりは福音派で確実にクリスチャンといっていい方であった。ただ全員がそうなのではなくひとりは仏教徒無神論者であったようにも思う。なお、そこで「クリスチャン」とこれをいった方はバプテスト教会の方で、これはプロテスタントぽい台詞だよねえと私は思うのだが、さて、お元気しておられるかしら。

*4:院の同級生であって、なので松永氏ではない。迷惑がかかるかもしれないから、ここではこの友人の名前は出さない。

*5:なお婚約した日のちょうど次が例のサリン事件の日で私たちの婚約式は乃木坂のある会館でだったので、あるいは一日違いで事件にまきこまれていたのかもしれなかった。そういう経緯があるので、オウムと聞くと、社会問題としてのオウム事件よりも怪しげな教説よりもなによりも、次の日の朝、心配して電話をかけてきた彼を思い出し、またもしかするとちょっとした偶然であの時彼の生命も失われえたのかもしれないということを思う。

*6:それだけよい人が 2ch.net では分からなく叩かれたりするので、やはり 2ch.net の人物評は当てにならないと思っていたほうがよいようである。

*7:計算間違えしていました。はずかしー。

*8:願っているというのは、もちろん私がどちらかといえば沸騰しやすいたちだからであります。でもネットで怒りを露にしたことはそんなにないとは、思ってます。