去年の人、今年の花

冬が長かった分、今年の春はあっという間に来て、あっという間に去っていった。桜が咲くたびに、彼といった花見のことを思い出して、なきたくなる。とりわけ実際にいつか二人でいった場所の景色をみると、涙があふれてくる。

それだから4月開催となった今年のOSC神戸へ出るために、4月半ばの阪急神戸線へ乗り、思い出すのは二人で乗った・開通したばかりの95年4月1日の神戸線やあるいは友人たちといった夙川公園の花見、もうだいぶ桜も散ってきた六甲の山並みに、二人で結婚一周年の記念に行ったことを思い出し、電車のなかで幾度も涙が出た。

3月11日の地震のあと、震災関連の報道はしばらくほとんど見なかった。わたしたちが結婚したのは95年の阪神大震災の直後で、それぞれ住んでいた場所はさして影響を受けなかったとはいえ、友人知人にいろいろ被災した人はいて、だから阪神の震災を受け、またそこから復興していく街の記憶は、これから二人で生きていくのだと無邪気に思っていた時期の個人的記憶と私のなかではないまぜになっている。あるいは今度の震災でご家族を突然に亡くされた方の話をきけば、自分が彼を失った時期の記憶がいろいろとよみがえってくる。そういう個人的なものに、十数年を経てもたびたび圧倒されて、だからいままでそれを表にはようは出せなかった。

わたしでさえそうなのだから、まして阪神大震災の被害をより直接に受けた方、とりわけご家族をなくされた方は、どれほどつらい思いを折々にしているかと思う。阪神大震災は昨年が15周年だったので、TVでは記念番組など制作され、そのなかで10年たっても忘れるものではないといっておられた震災寡婦の方のことばが記憶に残っている。

そうなのだ。10年くらいで近しい人を失った傷みは完全に埋まりはしない。たぶん、20年たっても、30年たっても、おそらく死が一切を抱き取ってくれるそのときまで、私の胸もまたうずくのだろう。同じようにして、幾千幾万の女たちが、あるいは鰥夫となった男たちが、夜に昼に涙を流すのだろう。そうなった理由が災害であれ自死であれ、不慮の死がもたらすするどい切断の傷み、死を看取ることすら許されなかった傷みというのは長く長く残る。いま逼迫した状況にいる東日本大震災の被災者の方の窮状を和らげることとは別に、この国にはそのようにつらい思いをしている人たちがいろいろにいるということは、もっといわれていいと思う。

いつもいつも泣いているわけではないけれど、涙しない日はない、そんな私たちの傷みとは関わりなく、神戸の街にいつか見た花が今年もまた咲いている。