祭だわしょーい

そんなわけで今年も8月1日がやってまいりました。ってユリウス暦なんで8月14日が8月1日に相当するのですね。8月1日から14日まで正教会では生神女就寝祭の斎ということになっております。こんどのは前回の使徒の斎と違いましてちょと厳しい。肉と乾酪*1だけでなく魚も原則断ちます。平日は酒と油も使わない。というわけでラドラー自作計画は来週の日曜日まで持ち越し(ソコカ)。いや私はもともとめったに酒は飲まないのですよ(飲めばすぐ轟沈するが)。

斎というのは上で書いたように一種の断食なのですが、しかし総体にいえばなんとなく楽しい時期でもある。まあ特別であるということは、それだけでちょっと気をひきしめるものであります。色々としんみりする時期でもあり、大きな祭に備えていろいろ準備しながらわくわくする時期でもあります。まあ復活祭と違って卵を染めたり特別な料理があるわけではないのですけど、やっぱり祭があるっていいよ。うん。

料理というわけじゃないですが、来週19日(ユリウス暦8月6日)には Metamorphosis, 主の顕栄祭があります。西方教会では変容といっていますね。この顕栄祭には、その年に取れた果実の成聖(祝福)があります。ギリシャなどではブドウが多いそうですが、りんごでもミカンでもなんでもありですね。果物ならなんでも。信者さんが家からもってきて、聖体礼儀の後で成聖される。ちょっと早いんだけど、YouTube から成聖式を。

教会の壁面が大きなガラス張りで、モダンなのに驚きます。どこかなアメリカかな。タグによるとOCA、アメリカ正教会(ロシア系)ですね。

顕栄祭は正教会では十二大祭のひとつ。この前お邪魔したシナイ山のエカテリナ修道院の正式名称は「ハリストス顕栄の修道院」この名称は修道院ご自身もあまり使っておられないのですが、その聖堂は「ハリストス顕栄の聖堂」、イエス・キリストが弟子達と山に登ったとき、輝くばかりに変容し、預言者二人が脇に従っていたという古事を記憶しています*2

もちろん地上はすべて神の手になり、祝福されているのですが――と私は信じる――、それをわたしたちは簡単に忘れます。忘れて、ぐだぐだな生活を送っている。斎も祭も、つまりは祝祭は、そのこと、わたしたちが本来よさに向かって造りだされたということを、観念としてでなく、身体と感覚を動員して思い起こすために、少なくとも私には欠かせない。そうして、そのよさを自分がよさと感じることが出来るということに、安心する。いやなに昼間から酒が飲みたくて、いってるんじゃないんですよ。ええ*3

ところでグルジア情勢はどうなってるのかな。ロシアとグルジアが一日も早く停戦すること、世界の平和を祈ります。

*1:卵&乳製品。英語でいう dairy food。

*2:ちなみに暦が違うので、あちらでは今日15日が生神女就寝祭、顕栄祭は6日にもう終えておられます。

*3:だいたい私はひどく酒に弱いのだ……。

いろいろ

夏が来れば思い出す。そうかあ、夫と6年半一緒に住んだあの家に入居したのは8月14日だったなあと思い出しました。新婚旅行から帰って来てしばらく小さな1Kのアパートで暮らしてましたが、社宅に移ったのですね。月頭の入居でなかったのは新婚旅行から帰ってきてからしばらく荷物を作らないといけなかったから。

この前 Google Streetview でその場所をちょっと覗いてみました。社宅の周りは私有地だから車は入ってこられないはずなんですが、そして目の高さから見たら公道からは私たちのいた部屋は見えないのですが、GSV だとばっちり見えるんだよね。敷地の一番奥なのに。これはやはりまずいんじゃないかなあ、と思った。人に見せるつもりのない場所に人為的に工作物を持ち込んで撮影しているということだから……

明けてこの日は、いろいろなものの記念日になっております。わけても終戦記念日。とは一般にいいますが、私はこの名前が好きではありません。第一に、この日にすることに疑問がある。この日にすべて戦闘が終わったように誤解させるし(占守島!)、降伏文書調印は9月に入ってからだし、国際法の上ではやはりサンフランシスコ講和条約調印の日が終戦じゃない? 第二に、そしてこちらがより大きな理由なのですが、終戦という欺瞞的な言葉が嫌いです。戦争が終わったというのは第三者的に過ぎる。敗戦といったほうがいいと思ってます。事実を受け入れなければ、それを乗り越えることも出来ないのだから。

カトの人たちは今日は大祭日ですね。ま・ここっとさんのブログ Tant Pis!Tant Mieux!によればフランスでは船での渡御行列なんかもあるんだとか*1。今日でなくって、14日、前日だけれども*2 。像を掲げての行列というのは古典古代の異教のようごたるな、とも思うが、それをプロテスタントのように異教的だと目くじら立てるか、自然的な理性によって聖性へと準備されていたと考えるか、たんに信心というのは根拠が違っても同形を取ることがあると考えるかは、人それぞれでいいと思っています。

一日一チベットリンク産経新聞:「中国核実験の被害を知って」 ウイグル人医師が日本で訴え。テロの話が報道されているけれども、それには根深い理由があるのだと思いました。平和って難しいね。ウイグルチベットではないのだけど、ご近所だし、中国領内少数民族ということでは同じだし、それになにより核実験の被害について知ってほしいという訴えに共感しました。なので今日はこれを。

*1:と引用したのでTBを打とうとしたらスパムコメント判定をくらいました。しくしくしく。

*2:なお昨日14日、つまりユリウス暦の8月1日は、正教会では「尊貴なる木・主の十字架の行列」の祭なんですが、日本でこの行列をやっている教会は聞いたことがないです。残念。なお正教での行列は十字行とどうも決まっているようで、先頭に十字架を掲げ、イコンを刺繍した旗や板絵イコンを掲げて信者がわらわらと続きます。ろうそくを手にすることもありますね。そうして聖歌を歌いながら練り歩きます。こう、なんというか、ものごっつもりあがりますですよこれは。

左翼運動としてのフリチベ?

とは決して字義通りには云ってないのだが、大澤真幸さんの「左翼はなぜ勝てないのか」(『中日新聞』「論壇時評」2008年7月29日、30日初出、http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/sayoku.htmより孫引き)にひっかかった。そこでの大澤氏のチベット騒乱への反応には肯取できないものを感じた。少し長いが引用する。

大澤信亮の小説の主人公が嫌悪を覚えるような左翼的なナルシシズムの典型例を、3月に勃発したチベット騒乱をめぐる海外メディアの報道の中に見ることができる。弱く善良なるチベット人を中国政府が弾圧している、と。だが、そう批判する者のほとんどが、チベットと中国の間の長い関係の歴史を知らない。1949年に中国に占領される前のチベットのことを知らない。なぜ、僧侶が主に中国に抗議するのかわかってはいない。
 孫歌が、「『総合社会』中国に向き合うために」(『現代思想』7月臨時増刊号)で、善玉と悪玉の闘争という図式で中国社会を見るべきではないと論じているときに問題にしているのも、このことである。この論考の中で、孫歌は、Tashi Tsering というチベットの伝記を紹介している。彼はチベットのイナカノ出身だが、偶然の経緯からアメリカに留学し、西洋史を勉強した。その結果、一方では中国共産党への不信感をもちつつも、他方で、党がチベットで行った土地改革・政治改革の意義をも理解し、帰国後、文革による挫折を経験したりもしたが、共産党による改革を完成させるべく、チベットでの学校建設に努力した。
 だから中国が善でチベットが悪だ、と言っているのではない。中国政府の対応にも問題があるのだが、どちらの陣営が一方的に善で他方が悪だという色分けは、中国社会の複雑性・総合性を隠蔽することにしかならない、と孫歌は主張するのだ。
 西洋や日本の多くの人々がチベットに同情するのは、チベットに特別な宗教性や精神性を感じるからではないだろうか。つまり、そこには「資本主義の物質文明を超える精神性」という幻想が投影されているのだ。こうしてわれわれは資本主義という問題に行き着く。

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/sayoku.htm

以下、敬称略。

「左翼的ナルシシズム」とは「常に「安全な場所」からのみ発せられている」ような同情、とこの引用の直前でいわれている。そのような「美しい魂」というものがあるとすれば、それがある種の偽善であることには、賛成できると思うが、そのことにはここでは立ち入らない。

さて、今引用した部分にはいくつか問題があると私は考える。

1.現在のチベットの状況への批判・抗議・同情、つまりは個々の人格に対する抑圧とそれへの批判を、非人格的な「歴史的文脈」という必ずしも個々の状況に直結するとは限らないものに論理を示さずに直結させている。
2.すなわち、過去の歴史的状況に視点を向ける一方、中国領チベットの現在の状況を語らないことで、現在の・究極にはチベット人個々人の生活の問題でもあるチベット問題を、空虚で超時間的・非人格的な政治力学に還元しきれるものであるかのように提示している

チベット支援活動の――すべてとはいわないが――ある部分には、当局に不当拘留されたり、あるいは拷問にあったりという個々人の体験談、またその総体としての現在のチベット人の苦境に同情する動きが含まれている。なかには拷問の結果死ぬ人もいる。そうした無数の体験談がネットによってあるいは亡命者によって語りだされる。2008年のいま中国当局に不当に殴打されている人の苦痛に対して、またその人の苦痛に同情する日本や欧米の人に対して、「チベットと中国の間の長い関係」「1949年に中国に占領される前のチベット」が何か阻害要因になるのだろうか。それはそれ、これはこれであって、過去のいきさつが仮になんらか考慮されるにしても、それが中国が行っている人権侵害の正当化にはならないと考える。

3.議論を論証を得ずに拡大している。つまり不当な一般化を行っている。

大澤はいま指摘した部分で「海外メディアの報道」とその背景にある心性について論じている。それが不当な論点のすり替えであることは指摘した。だが、引用した最後の部分で、大澤は「西洋や日本の多くの人々がチベットに同情するのは、チベットに特別な宗教性や精神性を感じるからではないだろうか。」と突然、日本の多くの人々、という主語を滑り込ませる。そこには何の論証もない。大澤は「こうしてわれわれは資本主義という問題に行き着く。」と続け、そのあと日本の資本主義社会における交換可能な若年労働力としてのニートやフリーターに論を移すが、それらとチベット支援運動との関係は彼の議論のなかでは示されない。

確かに、チベット支援運動がある種の神聖化された弱者像としてのチベット人と関わる可能性は否定できない。しかしそれはチベット支援運動にかかわらずあらゆる発展途上国支援にいえることではないだろうか。もちろんそこにはいろいろな濃淡がある。だがマスメディアの取り上げ方などにそもそも濃淡がある以上、そのアウトプットである市民運動にも濃淡があることは不自然ではない。中国の少数民族独立/解放運動に目を向ければ、同じように中国の少数民族であり政治的に記帳関係にある他の地域(ウイグル)などでの独立運動への共感は、日本においても欧米諸国においても、それほど高くないように見える。しかしここで、私はウイグルでの独立運動チベットと比べてより能動的な、つまりテロをも伴うような活動であることを指摘しておきたい。テロ一般について現代社会の許容値が下がっている状況では、活動形態の違う二つの独立/自治要求運動に対する反応が違ってくることは、不自然とはいえないと考える。また、距離ということにおいていえば、欧米でチベット解放・支援運動が盛んなのは、チベット亡命者の比較的大きなコミュニティがあり、二世三世が運動の担い手として活動していることも挙げられる。たんに部外者の同情によるものではないのである。日本でも、もっともチベット支援運動が盛んな土地のひとつである東京や名古屋では、在日チベット人や彼らとなんらかのつながりのある人々が運動に大きく関わっている。東京では、護国寺大師堂の前で、3月からチベット人と日本人支援者が毎日ろうそくを灯し般若心経を詠みラサ騒乱などでの死者を追悼しているという。安全な場所からだけ発せられる空想のようなもので長期にわたって活動が続けられるものではない。リアルな個人の体験として苦境が語られればこそ、人は同情し、何かしたいと思うのである。

そして私がもっとも疑問を感じるのは、たとえそれがナルシシズムから来るものであることを認めるとして――私個人がそうは考えないことは既に述べた――チベット支援活動の根底に大澤氏がみている心性を左翼的と名指す意義である。私は諸外国のチベット支援活動の状況に必ずしも詳しいわけではなく、大澤氏が最初「外国のメディア」のものとして語り始めたチベット支援活動とその心性の関係を突然日本のそれにも及ぼすロジックも理解していないので、これを日本の状況からだけ語り起こして反駁することに意味があるのかはわからないのだが、日本のチベット支援活動は必ずしも左翼運動とかかわりない。むしろ旧来の左翼運動関係者はほとんど入り込んでいないし、あちらでも興味を持っていないようにも見える。むしろ、右翼的な、というよりはナショナリズムに強い同情をもっている人の存在がちらつくことが多く、ついで政治運動ということではないけれどもオルタナティブ的なものに関心を持っている人がいて(それはある程度文化相対主義やさらにはフリーソートのようなものに関心をもつ人たちとつながる)、そしてそれ以上に既存の政治運動や政治思想との距離を置きたがっている人の数が大きいのではないかと、これは統計を取ったわけではなく私が実際に接した人たちからそう思うだけだが、感じている。チベット支援活動は、日本に限って云えば、左右の対立とは違うところで形成されている。そういう人たちは、チベット支援活動が「政治運動」だということも否定する。何人かとそのことで議論をしたことがあるのだが、彼らにとってはそれは「人権活動」であり「政治活動」ではないのだという。これがある種の心情主義から来ていることを私は否定しないし(肯定もしない)、そしてそれをナルシシズムと呼ぶことにも心情であることを否定しない限りで退けないのだが、しかしそれに左翼的という言葉を関する意味があるのだろうか? おおよそ左翼的なるものがあるとして、それへの罵声という以上に、そのラベルは意味をもたないのではないだろうか。つまり、ここでの「左翼的」は、その党派的エクリチュールを共有するサークル内でのみ通交する枕詞でしかないように思える。

全体の論旨には私はむしろ説得力を感じた。とくに「資本主義の普遍性は民主主義のそれを凌駕している」という指摘。資本主義は貨幣という交換記号を採用し、その作り出す信用を行き渡らせることによって、民主主義以上に広い範囲で世界を覆っている、そのことを私は否定しない。そして市場経済の現実として、中国市場はすでに国際市場経済における強力なプレイヤーとして登場している。だけれど、チベット問題とそこへの国際的な支援活動に関する大澤の議論は、私にとってまったく説得力を持たなかった。実のところ、この部分は「こうしてわれわれは資本主義という問題に行き着く。」という最後の一文をいうためだけにある、空虚な序詞に過ぎないのではなかったか。そして、資本主義と物質文明に対する精神文明の優位という空想ということをいうためだけであれば、チベット運動への現状に即していない言及などせず、他にいくらでもナルシシズム的心性がもっている空虚な心情の特権化ということに関する良い例を探せたのではないか、と思うのである。