量義治「理性宗教とキリスト教」『カント読本』法政大学出版会、浜田義文編、一九八九年。

  1. 宗教論の位置
  2. 理性宗教
  3. キリスト教理解

参照文献

  1. Martin Heidegger, Kants These über das Sein, Sonderdruck aus der Festschrift für Erik Sein, Sonderdruck aus der Festschrift für Erik Wolf "Existenz und Ordnung" 1962.
  2. Georg Picht, Kants Religionsphilosophie, hrsg. v. Constanze Eisenbart in Zusammenarbeit mit Enno Rudolf. Stuttgart: Klett-Cotta, 1 mit Enno Rudolf. Stuttgart: Klett-Cotta, 1985.
  3. 量義治「宗教哲学としてのカント哲学」『思想』一九八八年二月号。
  4. Karl Barth, Die Lehre vom Wort Gottes. Die Kirchenliche Dogmatik, I/2 vom Wort Gottes. Die Kirchenliche Dogmatik, I/2, S.316, S.327
  5. 西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」『西田幾多郎』第十一巻。



1.
「じっさい、神の問題は三批判においてつねに取り扱われている。」p.300.
「カントは[理性の関心を集約する三つの問いの答えである: 引用者注]形而上学と道徳と宗教を人間学としてまとめているが、最初の三者は……発展的関係にあるのであるから、人間学の中心は宗教である、と言っても、けっして言いすぎではないであろう」p.302
*道徳的信仰としての信仰、実践的形而上学としての道徳。
「カント哲学は全体として宗教哲学以外のなにものでもない、というピヒトの包括的なカント解釈はあながち牽強付会とはいえないであろう。」p.303.
2. 理性宗教
*カントの宗教=キリスト教
*RidGの構成

  1. 根本悪
  2. 「神の子の理念」: 根本悪の告白
  3. 「倫理的公共体」(Das ethische gemeine Wesen)としての神の民の建設
  4. 僧職制の批判=宗教批判

「この神の子(この者が人間的本性を採ったと表象されるかぎりにおいて)にたいする実践的信仰において、人間は神に嘉せられるように(それによってまた祝福されるように)なることを望むことができるのである」(VI,62)
*神の子にたいする実践的信仰 p.305

  1. 「神の子の心術」を……受け容れることによって、みずからが「新しい人間」となる
  2. 神の子自身が、我々の「代表者」(Selbstvertreter)として我々の罪責を負い、我々の「救済者」(Erlöser)として……神の義を充足し、我々の「弁護者」(Stellverwalter)として我々が神の前に義とされることを期待することが許される……。

「我々が神の子を模範としてみずから努力して生きるとき、そのとき、神の子自身が我々の足らざるところはすべて補完してくれることを期待できる……。大事なことは、我々自身がみずから神の子にならって生きはじめるということである、というのである。」(p.305)
*人間による最高善の遂行
「個人として自己の最高善を促進する義務と、人類として「共同体的善」としての最高善ないしは「最高の人倫的善」を促進するという「一種独特な義務」がある。」p.306
3.キリスト教理解
カントのキリスト教理解の非妥当性
道徳宗教=復活の否定 p.308