異教

VII.49
「異教とは、それ(すべての神崇拝の本質的なもの)が人間の道徳性にはないとするような信仰である」岩波訳S.68f.
ethnicismus brutus / ethnicismus speciosus
超自然的存在者の概念すら欠落している信仰(って animism はそうか)と「宗教における非本質的なものを、宗教の一部にする」信仰

過渡は当然異教的扱いと予想しますが、やはりそうですか。まあL(ry ただしだからといって典礼がたんに外的なものとして否定されるわけではない。VII.51。「宗教の伝達手段」の宗教(と信者)にとっての重要性。

「たんに規約的であり、したがってわれわれにとって偶発的で啓示教説である」信仰箇条と、「道徳的であり……すなわち信仰の理性教説である」信仰箇条。前者の総体が「教会信仰」であり後者の総体が「純粋な宗教信仰」
KU から KdpV へ戻っている感あり。こういうところは F.と親和性強そうだ。歴史は神の啓示ではないってのもどこかにあったよな*1

VII.50
「教会信仰」が本質的に含む異教性*2

VII.52
「見えざる教会」の一性と普遍性。Y下さんのいう「I.K.個人が顔を出す」ところか。

*1:土管が嫌われる所以か。

*2:もっともここでいう異教はK.のいう意味での「異教」であり、ユダヤ教に対する言及(VII.52f.)が示すように、非キリスト教がただちに異教であるわけではない。