「シロウトさんには理解しにくいこと(1)」 あるいは共同の食事 (Nomos, VI. 780E-B)

事柄そのものについては 784D-785A につきるが、おかげで面白い見物が見られるので当該の無名氏に感謝。

畑が違うと語法も違うので理解しにくいことがいつぱいになる。とりあえず、認定されるものは「むき出しの事実の記録」であって、むき出しの事実− (無規定な)「なにものか」ではありえないのではあるまいか。それも「法曹関係者用語とそのエクリチュールで記録された『事実』」であってさ、いわば「法に叶って行われた物語(Geschichte)」。対してその物語をむきだしの事実として措くことも、決して意識を伴わない行為ではなく、むしろすでに一定の−極めてパノプティカルな−眼差しに規定された行為なのではあるまいか? 法的解釈可能な形で「事実」を記述しようとする意思そのものが、法体系の有効な機能とその一意に決定される「正しい」解釈の可能を期待するだろうから。 もちろんそれを法学は Faktum と呼ぶというのなら*1、はいそうですか、でおしまいだけど。だがそれでもこの体系性への信仰と実効性への不満の乖離は問いとして残る。これって「見えざる教会」観とパラレルだよな。文化的土壌が同じだからか、て Altum / Novum Testamentum つー概念がそもそもローマ法由来なのだった。

作品と作品記述に類推するのはおいとく(なぜそれは作品として記述され、あれはそうでないのか?) 
orkut からレヴィナス・コミュニティのご案内。「何故いままでなかったのか不思議だ」たしかに。

*1:事実として、現にここにある法の適応としての意識的な「法解釈」はこの後くるのだろうということは予想できるので。