詩と真実

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000057.html

専門家が他の分野において、おのれの専門性のアウラのもとに語ることの是非を問う前半はおく。簡単にいえば、わたしはそれを個人としては好ましくないと考える一方、民主制制度がそのような発言を内在的に要求するのではないかとも予想している。だがこの話に私はいまのところ関心がない*1ので、ここでは立ち入らない。

後半だが、私にとって問題であることは、大屋氏にとってさして問題ではないことは了解している。だが、そこで短く言及されていることが詩の尊厳(Würde)と可能、詩形式の本性に関わると判断したために、私はあえて口を挟んだ。逆に法学者のいらだちは*2いま私の問題ではないのでコメントは差し控える。

詩は学知ではなく、詩人は(文学者のみならずあらゆる芸術家は)、詩人として語る、叙述するその限りにおいて「知っていることを語る」ことは出来ない*3。詩的叙述は真を開示する形式ではあっても、おのれの叙述の真理性を保障することは出来ない―それは哲学の仕事である。あえていうが、詩人とは己が何を語っているか知らない種族なのだ。ゆえにそれは技芸でありながら教授しえず、自己習得されるほかない*4。詩人でありうる個人が、詩人としてでなく語る場合の評価については、氏と私との争いはないため、ここで再度繰り返すことはしない*5。なので争点を確認して終わる。「知らないことを語るがゆえに、詩人は、つまり文学者は、文学者なのだ」と。

ああ今日も爺さまとの一日。かみさまわたしにいいひとをください。もう爺はあきた。

*1:しかし我々は言説空間の公共性について後で立ち戻ってくるとき、この問題をも取り上げるであろう。

*2:個人としては同情申し上げるし、私にも類似の経験がないわけではない。

*3:よこはまさんの「詩人として語る限りで」という限定はまことにただしい。

*4:この問題にはここで立ち入ることはしないが、美的技芸と他の技芸を―根本においてではないが―分かつ点は美的技芸のこの非教授性にある。

*5:そこから出てくる結論は、再び、上述のようにかなり違ったものになるのだが。