Du bist meine Tochter nimmermehr. あるいは池の魚を見分けることについて(vgl. Monad. 69.)

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040422#1082597654
たくさん書いてあるなあ。ぼへー。とりあえず。

* 1)書き込みをエフェメラルなものにすることが、どのように重要(【断片1】)なのか・重要であったとしたらなんだというのかについて開陳し、それによって、
o 「大量書き込み→大量削除」(を繰り返すこと)は、なるほど そのような意味でもっともなことなのか、と私が思えるようにしていただくこと。あるいは、
o 「大量書き込み→大量削除」(を繰り返すこと)は──「もっともなこと」ではないにしても──、なるほど そのような意味でおもしろいことなのか、と私が思えるようにしていただくこと。

この前渡した抜き刷りの3節と4節にそれはもう書いた(あまり主題的ではないが)。

この前書かなかったことを補足、このことはミサが記念なのかいけにえなのかということと連関する。消えたものは(事柄に即していえば食べたものは)復元できない。しかし「消した」という行為の痕跡は感知される。否、この「消す」において二つの存在者の間の存在論的 hiatus はそれとして保持されつつ時間のなかで合一へと高められる。deus absconditus が時間性のうちに知の対象となる契機は、まさにそのような否定性において求められる。このとき、個体が消えつつ系全体はまさにそれによってそれとして維持され続けることに留意せよ。Monad. 42節、63節、70-71節を参照。渦の維持およびその力動性と要素の消失についてはさらに Ideen を見よ。河本、一九九〇年は今でもこの問題については読むべき文献のひとつである。

なおテキスト支持体の不安定さとその効果についてはコルサータル『石蹴り遊び』も参照のこと。なんか今日わたし親切だなあ。やはり比叡のお山が人を清浄にするのだろうか。

考えたことを開陳し、

当然そのつもりですが、何か。でも君は私とひとつも所属学会かぶってないだろう。