普遍妥当性 Allgemeingültigkeit の要求

カント『永遠平和のために』 宇都宮芳明訳、岩波文庫。orig. Zum ewigen Frieden.
断片的日乗 よこはまさんコメント欄
http://blog.livedoor.jp/futagotou507/archives/461793.html#comments

確かに法が単なる強制でもまた社会的に受容されているルールでもなく、ある種の理由付けと結びついた規範である、というときに、在る法(law as it is)が妥当性を有する独特の条件と、それと相関する法に特殊な妥当要求の射程が問題になるという事情から、法哲学者は往々にして妥当要求を遍在するものととらえがち、という印象はあります。しかし囚われの身になってしまった者から見ると、挙証責任はむしろなぜ妥当要求が制約される領域を認めるべきなのか、の方にある(それだけ民主制は私達の世界にとって所与の条件とされている)と思います。
Posted by よこはま at 2004年04月29日 11:06

Kんとの時点ではまだ(彼にとって君主国以外の政体はありえなかったから−そして実は究極には我々にとってもそうなのだと思う)民主主義政体は考えらていないが、Kんと的公民と民主制とは高い親和性を持つだろう(vgl. ZeF)。それはおいて、ご指摘に感謝。「なぜ妥当要求が制約される領域を認めるべきなのか」は「なぜ主観の自己立法は可能か、立法なしに合法則性への主観的要求は生じうるか、規則を参照せずにかつ合法則的であることは可能か、またそれはいかなる資格と条件のもとにおいてか*1」とパラフレーズされようか。しかしそれは別の話。氏の warum への私の返答はさしあたりこうなる、「それは種としての我々が立法する存在者であり、かつ同時に1.我々が『正しく立法する』ことが可能な存在者かどうか個別的存在者としての我々には明らかでないから、2.類としての我々(共同体)がすでに歴史的に制約された個別的存在者であり、その立法としての法の総体はたかだか普遍妥当要求を持つに過ぎないことが我々には反省可能であるから」。

普遍妥当要求性を「交わり」―間主観性と解す読みはカッシーラー*2フィロネンコ*3にあり。id:hidex7777さ、フィロネンコ訳改訂新版、三田にないのでコピーしてくだされ。ぉぃ*4。なお中村(1995)によれば「フィロネンコは、フィヒテの特徴は、カントが美学論のなかに間主観性の問題の根本的契機を置いていたのに対して、法哲学のなかにそれを置いている点であると指摘する」中村、1995:11)。

*1:Kんとにおいてそれは直感的に、精確には美的にのみ可能でありえよう。

*2:Mitteilbarkeit[伝達可能性]. Kants Werke, Bd.11

*3:communication. Introduction du traducteur in: CJ, 1965, 1993

*4:Introductionは変わってないとは思うが。