記憶ということ

……時計をみたらちょうどUTCで19:00 だった。ちょうど10年前、ピザ食ってたときだ、と思ったら

夏時間だから+2だよね。

なので現地時間17時ごろ。

じゃあ気抜けして宿に帰ってくるちょうどそのさなかだ、と思ったのだが、そのときバスにのったのかタクシーに乗ったのかも覚えてない。……バスのような気もしないではない、がそれは翌日のような気がする。*1バスはちなみにオレンジ色をしていた。

たぶんタクシーで帰ってきたのだと思う。空の色が薄青く暮れなずんで、長い海岸線が殺風景な街ににあわず美しかった。そういえばまったく観光らしい観光をしなかった唯一の街だ。そうして、ホテルに一度帰ってから、か、あるいは、途中で降りてか、それもすでに覚えていない。あるいは途中でおりて、またタクシーをひろったのかもしれない。ピザを同伴者と分けたのだが、なんのピザだったかも忘れた。あるいはオリーブだったかも。中をふたりでわけるといったら、ウェイトレスに馬鹿にされた*2のを覚えている。そのピザの味ももう忘れている。それとも、オリーブというのは翌日地下鉄駅の上でみたスーパーマーケットのレジの前のオリーブの漬物の印象で、違うトッピングのものを頼んだのか。……なんだかサラミかハムだったような気もしてきた。

かくも記憶とは曖昧である。それが自分の愛着の薄さの表れなのか、あるいは違うもののあらわなのか、というとってつけたようなことを思う。

想起されるものは、どれだけ自然に想起されうるのだろうか。あるいは、想起したいという欲求が想起そのものを生み出すのか。……想起しようとしてできないということが、もどかしく、酷薄なのは歳月なのか、あるいは己なのか。そういうことを、夏の朝に、思う。

*1:宿に向かったときのタクシーの運転手がぜんぜん英語ができなかったことは覚えている。というかいま思い出した。

*2:とは同伴者の言。わたしにはぎょっとしたようにみえた。あるいはからかっていると思われたようでもあった。