• JB, SR, I-II. 帰省中であまり頭を使いたくないので(マテ 南原訳だけをもちあるいている。ここは割と Shall が頻出する箇所で、前に発表したときにはそのことに目がいっていたのだが、無(Nichts)=静けさ(Stille)にも、箇所は少ないが言及が複数なされる、ということを改めて確認する。Shallが Sprach, Freudenlust*1と極めて積極的な価値を担うのに対し、静けさ、あるいはわれわれによりなじんだ用語法では否定性は、ここでは両義的である。それは1)積極的なものを自体において保持しないという意味での消極的なもの、として否定的であり*2、しかしながら、2)積極的なものが、同時に否定的なもの、破壊、混乱として示現する限りで、そのような生への否定的契機として表現される運動を再び否定し、否定の否定として、混乱の廃棄によってもたらされる静けさは積極的な価値を帯びている。2)は、同時に音、ひびき、ことばの境位であり、したがってここでは(ということをJBは直接にはいわないのだが)静けさとひびきは存在者のとりうる(自己)表現の最高の様態がとる二つの側面である。 むうでんぱだ。。
  • エリアーデ論文集。神話、現代芸術、仮面、インド(宗教)芸術、などなど。
    • フィオーレのヨアキム。これは『世界宗教史』にも指摘があるが、ヨアキムの「三つの時代」という構想が、多くの西欧の思想家(レッシングやドイツ観念論を含む)に影響を与えているという指摘。
    • コーン『千年王国の追求』

*1:Merc.はしかし毒でもあるのだよな。

*2:しかしこれは、無が「積極的に否定されるべきである」ということを意味しない。むしろ、無そのものは消極的ですらない。したがってこういうほうが適切であろう。積極的なものをもたらすためには、否定的なものは意思によって否定、すなわち否定的なものとして規定されなければならなかった。