道草

原稿をやらなきゃいけないのだが、それはちょっとお休みして借りてきた本を遅まきながら読んでいる。予期していたことではあるが、使えそうな部分はそう多くないんだよな……やはり例のゲルノート・ベーメの自然哲学本の着想は新しかったということなのか*1。あまり期待していなかったマルティンセンの英訳本―ドイツ語テキストを扱ったドイツ語の研究書をどうして英語で読まなければならないんだろう*2―とくさっていたところ、今日めくると、これには Appendices という名のコメンタリーがついていて、それにはなかなか面白い情報もあり、よって、やはりいろいろなものを読むって重要なのねと改めて納得する。正直スマンカッタ。それによれば、なんでも後期のベルジャーエフベーメを高く評価していたということで……。そのなかでベルジャーエフは直接の並行関係はないとしてもエックハルトの神性理解とベーメの神概念の近さを指摘し、またベーメをもっとも偉大な神秘家と呼んでいるという。評者はベーメとソロヴィーヨフの近さも指摘していて……東方霊性ドイツ神秘主義思想か。ふうむ。これから読む本がまた、ってベルジャーエフもフランス語ですよね、いやだなあ*3(汗)………ベルジャーエフなら、邦語訳もあるよね、きっと*4

神の受苦、という以前はあまり意識しないでさらっと書いてしまったことが、実はとても異端的な思惟であることに気がついたのは実は最近である。2002年明けてすぐくらいだろうか。これ最初に出会ったのはシェリングの PdK の中で、PdK についての論文を書いている時にはその伝統からみた異様さに気づかなかった。すごく惜しいことをしたものである。ベーメについても、同じことはあてまはって、彼らには神の苦悶ということをいれる余地があるように思う。特にベーメにおいては、第二位格というのではないところで、話を組み立てる余地があるという指摘もある*5マルティンセン本の英訳者は、そこに古代の御父受苦論との近さを見ている。それが妥当かどうか私にはまだ判断する力はない、なにしろ英訳者が根拠にしている、第1原理*6と父を同一視するというベーメの言に私はまだ行き当たっていないので*7。ということもあって、私が理解している限りで、明確にベーメが神の受苦をいっているかというと、そこはまた微妙になるのだが……

まあ、とりあえずは「沈黙、言葉、静寂」という三つ組みと格闘するので、それはおいといて、って言葉は当然受苦とかかわるんだねえ*8……うううむ。そこまでは枚数の制約もあるし、いけるかしら。苦がなだめられて初めて喜び、さらに安らぎと静寂は来たる、なんていうことをわざわざいうのもなんか当たり前すぎて、そんなことをいまさらいうのも。ねえ。ていうか苦が被造世界の基本的な質だというところから始めないと、ベーメについては何もいってないに等しい気もする。第1の質としての苦と、人となった=自然となった神の苦、さらにこれがなだめられる第6の質「ことば/ひびき」はいかに関わるのか、ということをぎっちりやるのかしら。それはそれで面白いのかもしれないけど、神学的にどうということじゃなくて、むしろ超越的な言葉が感覚的な響きやその他の感覚的質から理解され、さらに感覚そのものが超越として把握されるということから、そのことも遡行的に出てくるんじゃないかな、だからここであえてそのことを言う必要はないんじゃないかな、と思ったり。別にキリスト論がやりたくてベーメを読んでいるわけではないという点もこれあり。*9。。

*1:ただし、1980年代のフランス語本でベーメにおける可感性の重要さを指摘したものはあり。やはり本は濫読してなんぼということか。

*2:何がいやだといって、術語がもとなんだったかたまに分からないことがあるのがすごく非効率で嫌。ドイツ観念論だともうやってられないって気持ちがこみ上げてくる。ただこの本はそれほどでもなかった。土管は神秘主義より実はもっとずっと指向性が強いのか、それとも英語訳研究書を読む前に仏語研究書を読んで多少耐性がついたからかは不明。

*3:フランス語は難しいと思います。はい。フランスを専門でやっている人ってそれだけで尊敬する。

*4:どうかあまりゆんゆんでない方が訳しておられますように。ゆんゆんは嫌い。

*5:シェリングの場合は、受苦は完全に御子の問題である。

*6:erstes Principium. これは被造物の形成の原理だと私は解釈している、あるいは「もの」の形成原理といってもいい。もちろんその源は神に由来するのだが[それゆえにものは神性の「しるし」でありうる]。

*7:この本古い本なので、引用箇所がちゃんとついていないのだ。。

*8:ベーメの自然論は畢竟キリスト論なのだ。その意味で彼は徹頭徹尾キリスト教の伝統の中にいる。

*9:ベーメのキリスト論は、それはもちろん面白いんですけどね。。アンドロギュノスとしてのキリストとかね。そしてそれは、不思議にも教父の言説とも通底しあっている。ベーメが直接読んだはずはないんだけど!徹底した思考とは畏るべきものだと思います。