偉大な兄弟はぼくらの同時代人

http://d.hatena.ne.jp/k-takahashi/20080520
自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)
大屋雄裕『自由とは何か』の書評をid:k-takahashiさんがしておられ、ええと内容をよくまとめられているので屋上屋を架さず、つまり本論には触れないで(マテ)、気になったところを。

通常のTRPGにおいて、誰にも見られていない行為というのは存在しない(想定することはできるが、普通そういうプレイはしない)。

PARANOIA...*1

というのをおいておいても、それはゲームによるんじゃないかなあ、と私は感じた。まあ私はゲームをしなくなって久しいので現在のトレンドではそうなのかもしれないが。古いゲームしかしらないのでメジャーで適切な例を出しにくいのだが、そもそも経験的に複数人で謎解きなどしたほうが解きやすいということを我々が知っている上に、プレイヤーが複数で行動することにゲームシステム上利益があるシステムで単独行動が少ないのは当たり前で、たんにそういう共同行為を促すシステムが多いというだけなんじゃないだろうか。また日本では SNE がパーティが仲良くみんなで協力するたちのシステムを強力にプロモートしたので余計にその傾向が強まったのではないかと思われる。逆にミッション中のPCが単独行動しつつ目的を完遂する世界を再現したいようなゲーム(Shadowrunとか)だと、いくらでも単独行動というのは出てくる。ような気がする。また、みんなに単独行動されるとGMの処理が重たく、そういうことを奨励あるいは容認する人は一部の物好きな人に限られる、という面をおいても。

ああ、上はもちろんPC/NPCという地平およびプレイヤ・他のプレイヤという地平だけを問題にしています。「誰か」がGMをすら含まないのだとすれば、それはもうRPGではたぶんないだろう。

そして、服従意識の希薄化という問題は、一部のゲームがオールドゲーマーから嫌われている大きな要因の一つだろう。

もうちょっと詳しく説明があると嬉しいです。どういうシステムがそのような問題をもたらすのか(ルールが意識されにくくなるのかな)、また「一部のゲーム」とは具体的に何なのか、「嫌われている」というのはどこで表明されていることなのか、ポインタを希望。いや私は全く浦島太郎なので&RPGは買う前に中身を見られないことが多いので地雷原を事前に避けられるとありがたいのです。

でこれだけだと揶揄しているみたいにも思われそうなので書いておこう――ええと、大屋本は、一応読みました。一応。でも私は扱われている問題をよく知らないので以下は雑駁な感想。なおこれはいただきものなので conflict of interest のある発言だということは記しておく。現代の米国/日本の法体系のなかで個人に関する情報がどう扱われうるのか、自由意志という古い問題を法哲学という実践的なんだか理論的なんだかよくわかんない領域*2の、それも英米系つまりは分析哲学系ではどう扱おうとしているのか、つまり個とその自由という古典的問題が現在の日米の具体的な法的枠組みの根底でいかように定位されうるのか、というあたりに関心のある人にはいい本だと思います。大屋君はばりばり分析の人、それも極めて戦闘的な分析の人のはずなんだけど今回はあまりそこが先鋭に出てなくて、ていうか今回はそれどんな初期ドイツ観念論*3てなテーゼも飛び出し、ギャラリーとしては、つまらないの半分にやにやさせられるの半分というところでした。買っても損はしないと思います。倫理学をやっている人、とりわけ情報倫理学などしておられる方には是非目を通していただきたいと思います。彼の主著*4ともども。

*1:市民、PARANOIAはもちろん通常のTRPGなどではなく完璧なRPGなのです。PARANOIA以外のゲームは反逆です。がそういうことをいっているのではたぶんあるまい。

*2:というのが私の実感ではある。

*3:いや詳細にみると違うんだけどね。初期シェリングの書簡論文の悲劇論における自由の扱いと比較すると非常におもしろいです。

*4:『法解釈の言語哲学asin:4326402393。これは読む価値のある本だと思います――いや私は本は読んでないのですが、雑誌に載ったほうので読みました、で、スタンレー・フィッシュの主張というか遍歴の一貫性というのがここで初めて分かった。ような気がした。なので彼には感謝しています。