偉大な兄弟はぼくらの同時代人・2

承前。http://d.hatena.ne.jp/Britty/20080522#p1 の続き。

id:k-takahashiさんからお返事をいただきました。k-takahashi’s 雑記、偉大な兄弟はぼくらの同時代人

創作されたPCに自由意思の存在を認めるかどうかというのは非常に興味深い話題ですが、ここでは遊ぶ側の人間を想定していましたのでプレイヤー(およびマスター)の話です。プレイヤーがPCの行動を決定する際に、その決定を「見る目」として必ず自分以外の存在があるから、その目の存在によって意思決定は影響を受ける、ということです。

というわけでさしあたり同じ話題を考えているのが確認できて、よかったよかった。なおここにはもうひとつ考えるべき論点があるのだが、それは後述する。

リンクをいろいろご案内いただき、「RPGにおける自由」を取り扱ったネット上の論考を2001年あたりまで遡っていくつか読みました。またはてなではないのですが、mixiで若い世代*1の友人たちから現状を聞きました。とりあえず冬の時代が終わりつつあることは喜ばしい、と思います。

誤解を恐れずに率直な感想をいうと、「自由」という語がガマの油のごとく使われていて、そして実際にはなにももたらしていないようなのが気になりました。いくつかの論考を読んで、それは近世哲学を専攻して自由といえば自由意志*2という私のような読者にはかなりついていくのが難しかったのですが、とにかく自由というのがなにかプラスの価値を担わされていながら、それぞれの論者によってまったく違う内実を帯びているという、いわば議論以前の状態のところでみなさん作業しておられて大変だなあと思いました。これは論者のみなさま、自由以外の言葉でご自身の主張を述べたほうが実りのある議論になるのではなかろうかと、老婆心ながら気になりました。

いくつかのリンクをみた限りでは、そこにあるのは、ゲームシステムの制約が意識されないという「アーキテクチャの統制」よりも、実際にはシステムがなくてもいいようなごっこ遊びの存在であるように思います。が、それぞれの報告がセッションの正確な記述を目的としていたと断定するのも不当ですし、これは引き続き観察していきたいとおもっています。

アーキテクチャの統制ということで、前回のエントリを挙げてから気がついたのは「RPGと呼ばれていてGMも含めた人の眼を気にしない遊び方があるじゃん」ということでした。すなわち videogame。MMORPG は除いて*3、すくなくとも通信機能のないコンシューマ機やPCゲームの場合、判定に必要なルールとデータと乱数の生成があるだけで、自分のすすめているゲームでの遊び方を知っているのは自分だけです。アーキテクチャの(暴力的な)支配ということで私がすぐ思いつくのは『ドラゴンクエスト』のNPCローラ姫なのですが、あそこまでむき出しでなくても videogame の場合、プレイヤーの行動の自由というのは実は究極には存在していない。videogame というのは極めて強い決定論的世界観に貫かれています。そのときプレイヤーはどれだけシステムに対して自覚的なのか、また人の眼があったときと自分のほかはNPCしかいない場とでプレイヤーの振舞いは違うのか、ということは考えるに価することのように思いました。

FEAR は……実はやったことがないんじゃないかな。というわけで機会があればどこかで遊んでみたいと思います。

*1:って30代前半だが。

*2:典型的な議論はカントの『実践理性批判』などに見られる。私のお勧めは宇都宮先生の訳です。

*3:知らないので。。