自由ということ

RPG的自由論ってのは、少なくとも日本語圏においては原始の混沌のごとき様相を呈していて、にもかかわらず自由というものがなにかよきものである・あるいは少なくとも退けられるべきものとは考えられていない、というのが、先日のエントリでの私の感想でした。その混沌の理由の一つが、自由の内実が各論者によって異なっているということにあるように私にはみえた、ということはすでに書きました。ここから一つの疑問が生まれます――そもそも「自由」という概念は(それはよいもののように思われているようですが)一般に理解されている概念なのか。

どうもそうじゃないんじゃないか、というのが私の疑問です。高橋さんという方が――社会思想の方のようですが――スチュアート・ミルまで遡って、とおっしゃるのだけれど、それは自由概念そのものの歴史からすればだいぶん新しい。またこのエントリをみてくださった方のなかに「自由意思」(ママ)という表記を使う方もいて、少なくとも私のほうからするとその方と私の自由理解は多分相当違っているだろうという予感がします。そしてそういうことを考えておられる形跡のない方もいます――たんにある特定の制約のないことを自由といっている。統一的な理解がないようだというのはそこです。だとすれば別の表現を探したほうが、生産的な議論が出来るだろう。

とはいえ自分としては自由という言葉を当分手放すつもりはない、ので以下はその話です。自己紹介代わりに読んでいただければ幸いですw

私にとって自由とは自由意志だということは既に述べた。少なくともドイツ観念論で Freiheit が問題になるときは――ことにそれが基礎的な議論であるときは*1、それは意志の根源的な自由が可能であるかという問題です。人間は善を自由に選択できるのか。悪を行う自由は人間にあるのか、人間は一般に何かを「自由によって」意志しうるのか*2、そういう議論であって、○○する自由というのは二義的な問題です。そして自由が哲学にとって大きな問題だということは19世紀初等に特にそうなのではなくて、キリスト教思想の展開のなかで自由とその可能ということはつねに特に大きな問題のひとつでした。なぜそうなのか。それは罪ということ、責任と罰ということと関連している。人間は自分が欲せずに行ったことに対しても罪を問われ罰せられるのか、ということが問われてくる。つまり、キリスト教が聖書を解釈するに、アダムの堕罪が人類に死を招き、イエス=キリストがその罪を贖うのだけれども、そのイエスが人として地上の生を終えるに当たっては弟子のひとりであるイスカリオテのユダに裏切られて敵対者にわたされた。そしてこの裏切りさえすでに旧約聖書に予言されていた。予言というのは前もって書かれているということです。もしユダにどうあがいてもその予言を覆すことが出来ないのだとしたら――言い換えればユダがある行為を行うことが決まっていたのだとしたら(それを決めたのが誰/何かはここでは置く)、ユダはいかなる仕方で自由な意志をもって行動したといえるのか、あるいはキリスト教の伝承がいうようにユダには滅びが待っているのだとすれば――そして彼の「裏切り」が仮に彼の意志ではまったくなく、たんに彼にとっては外的なある何かによって起こったのだとしたら、どうして彼を罰することは正義たりえるだろうか。これはキリスト教思想家にとって大きな問題でした。ユダを使って考えてはいますが、結局はひとりひとりの救済ということが背後で考え抜かれて、だから彼らにとってこれはとても切迫した問題ではあった。

ユダのしたことについて、いろんな解答が考え出されました。先年翻訳が発表された新約偽典『ユダの福音書』では、ということはグノーシスの一派は、これは神の計画であってユダはぜんぜん悪いことをしていないという解釈を出しました。たしかにこれなら自由の問題を考える必要もそもそもないわけですが、キリスト教の主流ではそうは考えない。ユダは確かに自分の自由で罪を犯し、そしてそれはあらかじめ予言されていたのだけれども、ユダの意思と関係なく決まっていたのではなくて、最後に自分の悪しき傾向性に同意を与えたのだからユダの責任なのであると。さらに『ヨハネ福音書』などによると、ユダはイエスを裏切った後で暗にそのことをイエスに指摘されたので、実はそこで改悛して赦しを請うことが出来たかもしれないのだ*3とする説もあります。これをまとめると、神の全知=予言=決定されているようにみえる未来の必然性と人の自由意思は意志*4どうやって両立するのか、という問題だといえる。

なおここで「自由」といい意志というのは理性の能力です。感性的欲望なんかも理性的決定を妨げるという意味では、自由の制約とみなすことが出来ます。というわけでルターは過激にも人間には自由なんかないのだといった。『奴隷意志論』という論文のなかでルターは人間には善を行う自由な意志などないのだといいます。たとえ善行を行ってもそれは救いを得るといういわば褒賞目当ての行為であって、ルターによればそれはすでに己の欲望に規制された行動です。なので、それは、自由な行動ではない。自分の利益に駆動された奴隷の意志のなせる業で、人間は善のために善を行うような強さもよさも持っていない、という。ここで自由があるとすればそれは神の自由でしかない。あるいはスピノザはさらにすすんで、人間どころか神にも自由がないと考える。さきほど自由と必然性は対立的に考えられ両者の関係が問題とされてきたといいますが、スピノザはあるのは必然性だけだと考えます。神は最高の必然性であって――そして世界はその必然性にのみ基づいていわば神の必然的な顕れなのだとされる*5。もちろんスピノザの体系のなかでは人間にも自由意思*6というものはないわけで、あるのは必然性に駆動され、いまある欠乏を埋めるべき欲求ですが、ここまでくると意志することと認識することはそう変わらないので*7意志と知性は同じものだということにもなる。閑話休題

つまり、我々はどうも、人間は自由な存在であり、だから自由を志向し、ということは自由な意思決定とそして行動の非制約という形での近代法思想がいうような自由*8というを当然に欲求する、それがあるべきよい社会である、となんとなく決めてかかっていて、ロールプレイングゲームというような遊びの次元でも、そのような自由な人間として遊戯したい、たとえばPCというかたちで自由な人間の振舞いを再現したい、過度にルールに規制されずにマスターなりプレイヤーとしての意思決定を行いたい、RPGを遊ぶということにはそういう側面が含まれているという暗黙の了解がRPG的自由論の根幹にあるように私は疑っているのですが、まずはその人間観がそもそも幻想である可能性をいちど徹底的に疑ってみてもいいんじゃないかなと、さし当たって私は感じました。先取りしてわたし自身の立場をいっておけば、私は自由意志はある、神においても個人のレベルにおいてもある、と考え、また近代的人権思想がいう自由をもおおむね支持しています。それで結論が同じになるとしても、自分のいう自由がどのようなものであるかの反省なくして何かの自由を論じるというのは、砥いでない包丁で河豚を捌くような危うさを感じなくもない。自分の考えの根拠を知らないということは、何かあったら簡単にひっくり返る可能性もあるということだからです。

なおスピノザの体系では、神はひたすら実は己自身でもある世界を認識しその静かな知性的な喜びに浸っているということになりますが、実はアリストテレスストア派が考えた世界もそういうものでした。ここでは神は世界の設計者とかですらなく、なのでこれをコンピュータゲームの設計者とプレイヤに当てはめるのは乱暴なのですが、世界秩序そのものである神とその中にいる個々の存在者がお互いになんの通交もない世界観、というのは特に過激でも目新しくもない、のでそういう角度から事態を捉えてみる試みもおもしろいのではないかと根拠なく思っています。

*1:ここで法哲学のようなものはある種の応用哲学なので除外する。

*2:これは古代以来の「人間は望んで自覚的に悪を行うことがあるのか」「悪であると知っていてなおかつ人間がそれを欲求することはありえるのか」という議論とも関係しています

*3:その場合イエスが死ぬことに変わりなくても、ユダは師を裏切ったままで終わらなくても済んだわけである――なおマタイ福音書とルカ福音書はそのあとユダが自害したと記しています。

*4:がー。これは誤変換です。うみゅう。

*5:これはキリスト教ユダヤ教が伝統的に信じてきた「神の善なる意志に基づく創造」と対立するので、もちろん彼は各方面から無神論者として攻撃される。

*6:うがー。ここもtypoだ。

*7:俗に言うと「わかってるならそうするよね」、ところでこれは初期プラトンの考えた知と意志のモデルと類似しています。

*8:これは上に書いた話とまた文脈の違う話です。社会的権利としての自由には古代身分制における「自由人」にはじまり近世から現代に到るまでの法秩序における自由権の問題が関係するのですが、実は自由権・人権の根底にある近世的な自然法思想もまたキリスト教思想どっぷりな発想であって、なので近世からだけ考え始めるとその思想の根幹を見失うだろうとも思っています。この話は機会があれば後日――イギリス経験論やっている人が書いてくれるのがいいんだけどね。