アントニオとアントニオス

アントニウス、またの名をアレクサンドリアのアントニオスという人がいて、修道の父と呼ばれている。最初期の砂漠の陰修士の一人である。この人の伝記を三位一体論で有名なアタナシオスが書いているそうなのだが、わたしは残念ながら読んだことがない。

という有名な人なので、この人の名前を取った人が多くいて、アンソニー*1だのアントンだの各国語バージョンがいろいろある。

直接この人に由来するのか知らないのだが、パドヴァのアントニオという人がいて、カトリックでは聖人である。何をした人か実はわたくしよく知らないのだが、幼児のイエスを幻視したりしたらしい。パドヴァにいくとえらくでかい教会があって、私は最初大聖堂かと思ったけど、そうではなくてこの人のお墓兼な教会なのだった。参拝者向けの案内パンフがあって、そこには「失せもの探しの守護聖人」等々かいてあった。まだそのころは元気だった夫が「じゃあ、君の守護聖人だねっ」といったのを覚えている。彼自身はどこからどう見ても信心深い人ではなかったのだが、わりには守護聖人だの信心業だのが好きな人だった*2。おいて。

今日6月13日はパドヴァのアントニオの日だったよなあと思い、ウィキペディアで調べてみると、確かにそうなのだが、「リスボンのアントニオ」なる二つ名もあることが分かった。リスボン生まれのポルトガル人なのだそうだ。これは知らなかった。中世でいう「○○(地名)の××」という呼称は、○○が出身地だとは必ずしも限らなくて、キリスト教関係者の場合むしろその人が司祭や司教/主教として奉仕した地であることが多いのだが*3、この人の場合もそうなのであったか。まあそういう経緯もあって、この人パドヴァ守護聖人であると同時に、ポルトガル守護聖人でもあるのだそうだ。

ポルトガルでは祭日なんだろうか、というのを調べてみると、残念ながら?*4そうではないらしいのだが――まあイタリアだって10月4日が公休祝日じゃなかったはずだし、いまどきはそういうものなのだろう――、そのかわりおもしろいことを見つけた。ポルトガルでは Antonio といえばこの人であって、大アントニオス(アントニウス)ではないのだそうである。じゃあどうするんだと思ったら、後者はアントン(Antoa)と呼ぶらしい。名前空間を別にするのじゃなくて、呼称をそもそも変更して棲み分けているらしい。まあ両方有名人でしょっちゅう言及される名前だと、そのほうが便利だろうなというのは分かる。……もっともフランシスコ・ザビエルみたいに、本来家族名だったはずの名前が個人名に使われる*5となると、それどうなんだろう、という気もしないではないが。

なお先ほど、いろいろ地域によって変化形があると書いたが、これ男性名を女性名に転用することがあって、アントニオの場合はアントニア、アントワネット等々となる。ハプスブルグ家の場合、女性はある時期からみな聖母マリア+誰かの名前をもらうことになっていて、なので後にフランス王妃となるマリー・アントワネットパドヴァのアントニオから名前をもらっているそうだ*6。彼女が生まれた前日が例のリスボン地震で、これがヴォルテールが楽観主義を捨てたきっかけだというのもなにやら因縁めいて聞こえるが、さすがにそれは奇しき偶然というものだろう。11月2日でなぜアントニアになるのか謎なのだが、代父母がポルトガル王夫妻だというのでその関係なんだろうか。

もっとも、直接の因果関係ということとは別に時代相というものはあるので、あることが他の何かと同じ時期に起こったり起こらなかったり、ということは、短絡的に結び付けられてもいけないと同じ程度には、常に一定の注意をもって見られてよいと思う。それはたとえば、漫画家さんと編集者の関係が、企業と個人事業主の請負関係の歪みとして語られ告発されることと、ある歪んだ労使関係の中にいる個人が重大な犯罪を起こすことが、二日続けて露になるというようにして起こる。そのふたつが続いたことがたまたまであるということと同じ程度には、そのことがらがひとつの社会の同じ法と経済の体系の制約のなかで起こったのだということを、楽観的な啓蒙主義の終りと旧体制最後のフランス王妃の誕生が引き続いたのとは同じくらいに偶然と相関の間にたゆとうてありえることとして――しかしいまは早急な結論を出さずに、ただ自分の心に留めておきたいと思っている。

*1:正直言えば、ときけば丘の上の王子さまといまだに私は思うのであります。

*2:まあ、親戚の法事を休んだことがない人でもあり、実は彼なりの不思議な仕方で信心深かった、のかもしれない。

*3:たとえばヒッポのアウグスティヌスはヒッポ司教だからそう呼ぶのであって、出身地はタガステである。

*4:お祭りは多いほうが世の中楽しいよねえ、違うかな。

*5:日本のカトリックの呼び方だとサベリオさんらしい。

*6:ドイツ語版ウィキペディアによる。