ヨハネ福音書異読 7:53-8:11

id:matsunaga さんの「イエスの話。」に書いたコメントの続き。

個人的で乱暴な感想だが(なので実証的な裏づけを伴わない)、キリスト教徒でない人でこの箇所が好きな人は多い。噴飯物とはいわないが、キリスト教が嫌い、あれはパウロ教だというような人にもこの箇所を好む人がいる。それはずいぶん勝手な意見だよね、なぜなら聖書はそもそも教会の著作であって、かつまた今われわれが知っている文書群を「聖書」といい異読(並行記述)を整理して纏めたのも教会なのだから、と私は感じる。この箇所については、とりわけそうである。なぜなら34*1世紀までの文書にこの箇所は登場せず、明らかにキリスト教が公認され制度化していく時代の、まさに当時の教会が考えていたキリスト像ヨハネ 7:53-8:11 にはあるのだから。

わたし自身は文献研究としての聖書文献学の知見を受け入れつつ、かつ教会の伝統のなかで教会の読みを受け入れることにためらいを感じないので、この箇所をも今ある教会がもっている聖書の一部として受け取ることにも何の問題もないのだが、1世紀後半からのキリスト教は嫌いであり、そのキリスト像は嫌いであるといいつつ、それより後代のもっと制度化が進んだ4世紀のキリスト教文書のキリスト像に愛着を持つというのは、やはり自己撞着であるように私には感じられる。

1世紀の、ヨハネ教団の、ナザレのイエスを肌で知っていた最後の世代の人たちのキリスト像と、この異読に登場するキリストはおそらく直接の関連をもっていない。それを反映してか、教会の中でのこの箇所の扱いはあまり重くない。たとえば正教会の通常の典礼ではこの箇所はごっそり読まれない。ヨハネ福音書は復活祭からペンテコステの間まで読まれるのだが、このあたりは8:52までが読まれた後、朗読箇所はいきなり9:12 へ飛ぶ。重視されていないというよりは、この付加部分の相対的な新しさをむしろ感じさせる慣行だと思っている*2

また、この箇所を好む人が「他人を批判する前に、自分を省みる」というような解釈をすることにも、やや一面的だなという気がする。それは全くの的外れではないにしても、この箇所の使信(ケリュグマ)に十分届いていないのではないだろうか。むしろここでいわれていることはもっと過激な主張であり、「目の中の垂木」と通じるメッセージがある。人を裁こうとしている者のほうが、ある意味もっとずっと罪深い、他人の罪をいいたてるそのやり方自体が罪と悪意の産物であるという告発がここにはある、と私は理解している。

まず、歴史的背景から、このことを確認したい。注釈書によれば、この挿話の背景にある当時の律法の慣行では、姦淫に対する石打は1世紀のユダヤガリラヤ、つまりローマ帝国の領土とされた中東では行われていなかった。ローマの総督*3ユダヤ人に一定の自治を許したが、しかし死刑を宣告する権利はユダヤ人にはなかった。それはローマ人の独占する権利であり、だからこそのちにユダヤ人はナザレのイエスをピラトに裁かせようとする。石打は律法の文言には指示されてはいても慣行法の要求するところではもはやなく、かつローマの統治下で合法的に石打刑を行うことは不可能だった。ここでイエスが直面しているのは、ある二つの袋小路、律法の文言と矛盾した言動を取り否定するか、またはすでに当時の感覚でも不当に重い刑罰を要求させかつローマ人の統治に対して反逆と取られかねない発言をするか、という試みなのである。女を裁くことが目的ではなくて、ナザレのイエスを陥れることがこの場の目的で、それに対してイエスが巧妙にやりかえしている*4――ここで石を投げるということの二重の不適切さを、律法の効力には直接に言及せずに、それをほのめかした相手に行動を促すことで露呈させているのだといえる。それは「他人を批判する前に、自分を省みる」というような平板な教訓ではなく、もっと苦く深い、剣のように刺す皮肉なのだと私は理解している。

そしてテキストに即していえば、この箇所はおそらく前後のテキストの主張を際立たせるための例として挿入されたのではないかと思われる。7章の後半は「律法に従って人を裁く」ということ、法を知っている体制内の人間が法を知らない人間を軽蔑し恣意的な運用を行うことへの批判、したがってその裁きの方法的な適切さの要請(ヨハネ7:48-52。律法に従って人を裁くことは公の秩序を維持する上で欠かすことはできないのだが、しかしそれは私刑を許容する事とは違い、法に定まった手続きによって保証される公平さを伴っている必要がある)が律法学者の会話を通じて主題化されている。そして8章12節からはイエスの語りがはじまり、一歩進んで、「我は何人をも審(さばき)せず」(ヨハネ8:15)、彼を、また父を信じないものは自らの「罪のうちに死なん」(ヨハネ8:24)といわれる。 ここではもはや裁きとは神をも含む他者からの外在的な批判などではなく、むしろ己のうちにある罪が神との関係で現れることを意味している(cf. ヨハネ16:8-11)。それである砂漠*5の教父がいうには「神は羊と山羊を最後の日に分ける。神はご自分の羊を知っておられる。そして山羊とはこの私である」――このとき裁き(クリシス)とは、神と人との個人的な関係、あるいはさらに人の個体性*6のなかに裂開する存在論的な境位であって、裁き、とりわけ宗教的な義しさを問うような裁きは「この私」の能力を超えている。人の批判、というより裁きということは、自分を義しさにおくときには決して真正な仕方ではなしえないし、そのような態度こそまさに裁かれるのだというのが、ここでの主題であり、この挿話をここに加えた人の意図であるように私は理解している。なので、それを他者への批判一般に切り詰めることは事態の矮小化であるように私には感じられる*7

ともあれ、キリスト教が嫌いといわれても、そもそもキリスト教をまったく離れたところでイエス像を考えることは不可能なのだ――ナザレのイエスについてもっとも古い同時代資料は結局新約聖書のなかにしか見つからない*8。そしてそれはすでに1世紀後半の解釈と状況を大きく反映しており、決して時系列や登場人物や文脈の記録においてそのとき起きたことの正確な記録であるというわけでもない。松永氏はQに言及しておられたが、Qは結局は共観福音書からの理論的な原資料再構成であってそれ自体は読書の対象ではない。Q資料のイエスが復元されうるとしても、それは教会の文書から再構成された形でのみありえる二義的なものである。さらにまたQが写本のかたちで将来出てきたとしても、それはおそらく、その成立時の信者集団の、つまりは西暦40年代か50年代かのある一地方(おそらくパレスチナ)になされた信仰の表現であり、したがってそれもまた教会の著作以外のものでなく、我々は教会と全く無縁なところにイエス像をもたない。したがってQにおけるイエスの言行録が完全に復元されえたとしても、それは教会のものでない「本当のイエス」像を客観的に示すものではないだろう。*9

ところで像というものが何かの像である限りは、それはつねに誰かの主観の産物である(ある客観か主観かとの関わりで生じるにしても、やはりそうなのである)。そこでいう「本当」とはなんだろうか。なにかの客観によって支えられているというのなら、教会のイエス像であっても、イエスの言動から離れては成立しえず、その限りでは客観的なのである(もっともおよそ客観的なものとかかわりをもたないような像というのがあるということは、私もみとめるにやぶさかではない。しかし共観福音書のイエスは、そこからQの復元ということが考えられるほどには史的イエスへの関心に遠くない)。それこそ、そのような唯一、本当の像が他の像とは別に客観的にありえるという仮定自体が、錯誤なのではないだろうか?

なおパウロは別に実在したイエスとその言動に関心があったわけではなく、だからイエスの言動に関心のある人にはつまらないということを認めるに私もやぶさかではない。パウロが関心をもったのは、イエスとその信仰について――つまりイエスの信仰の形而上学的なまた救済論的な意義であって、「十字架の死に到るまで」彼が神に忠実であり、神もまた彼に忠実であったのだということ以上に、実在のイエスについてパウロから引き出すことは、とりわけガラテヤ書やケサロニケ第1といった初期パウロ書簡からは難しいと私も考えている*10パウロが嫌いな人が多いのはそれはしょうがないよねっていうか、新約聖書読んでると、口が悪くていつも怒ってるデムパ親父という印象がまず沸いて来るのは仕方ないよねw。でもいいところもあるんですよ。パウロファンにはフィリピとフィレモンをおすすめする。

*1:2008/07/29注記。確認したが、4世紀の代表的な写本にはこの箇所はない。むしろ5世紀以降というべきであったか。

*2:なお、公の祈祷でまったくこの箇所が読まれないわけではなく、4月1日(4月14日)のエジプトのマリヤの祭日にはこの箇所が読まれると聞いた。ただしこの祭りは日本では行われていない。

*3:正確には皇帝の私的な下僚。

*4:質問でもって質問に返すというのはファリサイ派に伝統的な問答法である。明確な質問の形をとっていないが、ここには「罪のないものとは誰か」という問いが伏蔵している。

*5:駄洒落じゃないですよ。。

*6:その根底には神と通じうるものがあるとキリスト教は考えたわけだが、そのことにはここでは立ち入らない。

*7:松永氏の理解の仕方がそうであるといっているわけではない。彼の読み筋について私は詳しくない。

*8:トマス福音書の年代がここで問題になるが、共感福音書と比べて大幅に異なるものではないと理解している。またテキストの上でもグノーシス的な異同があるとはいえ、なおも量的には共観福音書と共通の表現が多いというのが私の印象である。

*9:ということは別にいまさら議論しなければいけないようなことではなくて、ルドルフ・ブルトマンの初期に史的イエス復元の限界を論じた有名な仕事がある。

*10:パウロが主題化した「ピスティス・イェースウ」が、イエスを信じる[信者の]信仰というよりは、端的にイエスの保った信仰であるという主張は、日本では清水哲郎や田川健三によってなされているが、キリスト教内の文書にもみうけられる。Orthodox Study Bible のガラテヤ書注釈を参照。一方私は、フィレモンやロマ書にはイエスを神とみる観点と調和的な読み方の可能な箇所があると考えてもいる。ガラテヤ4:14については、保留中。ヤハウェの使いをイエスに重ねる読み方は魅力的なんだが、この時代の「天使」概念を知らないと立ち入った判断は難しい。