愉しい知識

こういう大衆のルサンチマンを刺激して吊り上げ、元々ネット以前から知り合いだった連中とそれを肴に酒飲む

はてなも超人の割合が減ってきたなぁ - Automatons Hacking Guide

それのどこが楽しいのか、よくわからないんだけど、ええっと、ていうか、それとてもつらい哀しい話にしか聞こえない。そういう「楽しさ」ってむしろルサンチマンそのものにみえる。ニーチェが超人に求めたギリシアの晴朗さとは、対極にあるもの。

引用したブログの書き手は「ニーチェ的な超人」を待望しているらしいのだが、ニーチェの超人ってそもそも優劣の比較とかいう次元の問題ではないのだと私は理解している。他者との能力の計測可能な優劣で人を量るというのはまさにニーチェが畜群と呼んだ人々の感覚ではないだろうか。ニーチェの超人とは、そのような一時の現象にあるいは他者の思いなしに拘泥せず、生への優れて肯定的な意志を持ちうる人のことだったはずだ。少なくとも私は『ツァラストゥラ』をそう理解している*1。だいぶ前に読んだ本なので、テキストに即した理解なのかどうか、もう自信はないのだけど。

釣りってよくわからないんですけど*2、こういうのをいうのだろうか。って私も釣られてるのかな……。

なお、この人は唐突にカント(イマヌエル・カントのことだよねえ)に言及するのだが、たいていのカンティアンというのはこういう思想の対極にいて、むしろ超絶平等思想の持ち主であり、かつまた正しく筋道を立てて考えればカントの思想は誰にでも理解できる(だって正しいから)と考えている節がある。少なくとも私のあったことのあるカンティアンはそういう感じの人が多かった*3。そして彼らがどれだけ平等思想の持ち主であるかというと、カント研究会といういちおう全国規模の会があるのだが*4、そこは「研究の上ではみな平等である」という趣旨のもと、身分に関わりなく、すべての出席者は「さん」づけで他の人を呼ばなければいけないという規則があるほどである。それに何か実質的な意味をもつかどうかは、ここではあえて論じない。ともかくも彼ら自身はそれを意味があることとして大真面目でやっている。そういう彼らに

まず頭が良い人が悪い人に分かる文章書くなんて思い込み。

人類最高知性の一人カントが書いた純粋理性批判が万人に理解できるんですかね?

本当に頭がいい人と会ったことも無いし、彼らの文章を読んだことも無い癖に決め付けてて本当に頭が悪いですね。

まあ頭が悪いのを自覚してるだけマシってところですかwww

はてなも超人の割合が減ってきたなぁ - Automatons Hacking Guide

という文章をみせたら、どんな顔をするだろうか。怒るだろうか。悲しむだろうか。もちろん第一批判は難解な書で素人向きではないが*5、きちんと一定の訓練を受けた人になら、その論理構成を追う事は――難しいが――不可能ではない、と思うんだけど。だめかな*6

そして訓練の有無ということと、頭のよしあしということとは、また別の話だ。少なくともカント自身はそう考えていただろう。ドイツ観念論の中ではむしろ「通俗」「卑俗」という侮蔑的な響きを込めて使われることの多い gesund という形容詞は、カントの著作のなかでは「ふつうの」「健全な」理性という文脈で多く登場する。カントほど、理性の普遍性を信じた人がいただろうか。*7それは「頭のよい」「悪い」というような単純な二分法に押し込めることのできないものであるように私は考える。否、カントはアプリオリな超越論的認識能力の根底に形而上学への志向が理性の自然的素質としておかれていると第一批判において主張している(そして私の理解ではこれは第三批判に到るまで変わらない)。カント的な理性、純粋理性批判が考えた人間知性とは、理性使用の可能を一部のエリート、「超人」に限定するのと対極にあるものなのだ。

かつまた、カントを離れても一般にある哲学的概念を理解できないことが恥ずかしいのはたいていの場合業界の中だけの話である。ゆえにそれは一般に罵倒されるに値するようなものではないだろう。そして業界の中に話を限っても、偉大な哲学者が、自分の体系とうまく噛み合わない概念が理解できなくて的外れな批判を繰り返すことを、哲学史はたびたび見てきた。自分の世界にないものを理解するというのは大変なことなのだ。

ともあれ、隣の畑にいる私でさえ何か居心地の悪い思いをしているのだから、彼らプロパーの困惑はそれを絶しているだろう、と私は予想する。それなので、私は愛すべき友人たちのために、彼らの大半はあまりネット遊びをしないことに少し安堵している……。

一日一チベットリンク - チベット亡命政府を代表して重要なお願い / 2008年8月30日、世界中で12時間の断食を!ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

*1:そしてたぶん、それは自分の前の状況を外的な宿命としてではなく自分の自由意志の結果として引き受けるシェリングの悲劇的英雄とも近いところにいる。ニーチェシェリングの悲劇観の相似性については Dieter Jaenig の大著、Schelling に詳しい。

*2:いつ頃からいわれるようになったんだろう。私がネットから遠ざかっていた頃にはやり始めたのじゃないかと思うが違うかな。10年前にはそういうタームはあまり聞かなかったように思う。

*3:一般化というのは危険だが、カンティアンというのは不思議にどうも似通った人が多い。もっとも向こうにいわせると、シェリングやる人の感じというのは共通しているそうだ。そうなのかな? ていうかそれってデムパってこと?

*4:いちおう学会誌も出している。

*5:そしてそれは成立事情とも大いに関わっている。急いで書いた本だから構成がやや緩いのだ。

*6:個人的には、あれは強烈なデムパ本だから、あれがおもしろいと思えなくても、まあいいだろうとは思うんだけど。

*7:たしかに『学部の争い』などではカントは大衆一般と理性的な公衆を分けており、ある種のエリート主義をわれわれはそこに見出すのだが、その二者を分かつのは生得的な能力の差などではなく、むしろ理性を陶冶するに十分な学的訓練の有無であるように思う。