目的のない図像

昨日読んだシンポジウムレポートで「無機的な」つまり特定の意図の産物でない 画像というふうに Google Streetview を位置づける議論があったのだが、伝統的には制作物はつねになんらかの意図によって作りだされたものとされ、特定の使用目的へ向かって作られていないというのは美的制作物(要するに芸術)のひとつの徴表でもあった。Google Streetview の映像を私はおよそ美しいとは感じず芸術とも思っていないのだが*1、しかしその作り出すシュミラークルとしての現実世界の像が、それ自体は撮影によって記録し公表するという以上の特定の目的を持たないということにも反対しない。Google Streetview もまた表現のための表現の一形態なのだ。

19世紀末「芸術のための芸術」l'art pour l'art という審美主義といわれる運動がイギリスなどにあって、それは背徳的と当時叩かれることもあったのだが、それはなんらか不道徳的なことがいわれたからということを越えて、道徳や信仰といった、表現にとっては外的な目的をもたない、純粋に表現のための表現を標榜することがそれ自体不品行であり逸脱だという反発であったように理解している。Google Streetview への反発と不安のなかには、プライバシーへの懸念等々と並び、「目的がなんだかわからない」しかし量的には膨大な画像群についての漠然とした不安もあるのかなとふと思った。

*1:あれを素材にした芸術作品/インスタレーションは可能だろうけどまた別の問題