男の子との会話

こんな記事を読んだ。

実は、女の子とデートで会話を楽しむとき注意すべき、「言ってはいけない言葉」があります。この言葉は女の子を不機嫌にさせてしまう恐ろしい言葉です。今回は、「話を聞く時、女の子を不機嫌にさせる3つの言葉」をご紹介致します。

話を聞く時、女の子を不機嫌にさせる3つの言葉 | ライフハッカー[日本版]

恋愛術といっているが話の趣旨からいって女性一般に拡張してもいいだろう。
それによると、
1. 「○○すればよかったじゃん。」
2. 「それって、よくある話だよね。」「それって、一般的な話だよね。」
3. 「俺なんかね…」
が三大鬼門なんだそうですが、ううん、どうなんだろう。と考えてみて、そういう無礼なことをいう男友達が、身の回りにいないのだと気がついた。だから自分がどういう反応をするのかというのは実はよくわからない*1。ただ、3.でいう自分の話を始める男友達というのは多少、いや結構いるような気がするが、あまり気にならない。記引用は「自分自身のエピソードは、女の子が求めてきたときだけ答えるようにしましょう。」と続くのだが、とくにそれを乞うたことはない。というわけで、私の友人たちはいわば勝手に俺語りモードに入るわけだが、でも特に気にならない。それは何故か、考えてみた。

  1. 話が一段落してから「私にも似たような経験があったんですよ」という趣旨で持ち出される。
  2. たんに体験談を話すというのではなくて、「……だからその気持ちはわかりますよ」という含意がある。
  3. そのように共感を示す一方で、それぞれに事情があって一般化できない話だという明らかな前提がある。

からかなあ、と思った。相手の話をさえぎらない、共感を示している、一般化しているわけではない、というのがポイントのようだ。話の途中で口を挟むのは単純に非礼だろう。それで、「俺なんかね」が反感を買うとしたら、そのとき相手の話の腰を折るか、または前の話をまともに聞いてなかった(あるいは自分のほうがもっとすごい経験をしているということを自慢したい)ことが透けて見えてしまうからではないかと思われる。

1.の「○○すればよかったじゃん」は若いなあと苦笑する。それが出来ないから(でもそれでは気がすまないから)その話をしているのではないだろうか。それに対案を示しているつもりだとしても、遡って実行できない以上、絵に描いた餅と同じである。対案を示すなら、いまこの状況で意味のある対案だけにしたほうがよい。まだ、まずかったねとか単なる批評のほうがましだ。もっともそこで望まれているのは「残念だったね」とか共感の表示のような気もするのだけど。

2.は、ああそういえばひとりだけ知り合いにいた。いまは音信不通である。確かにこれはむっとくるね。おまえはどんだけ沢山事例を知ってるのか&だからそれがなんなんだとつっこみたくなるような言い回し。賢しらなところと、話を聞いてないのが露呈するのが相まって嫌な気持ちがするのだろう。個別事例を「そういうことあるよね。この前こういうことがあったよ」と持ち出してくるならまだいいのだが、「よくあるよね」だけなら話がたんに終わるだけで、こういう相槌を打たれたらむっとするよねと思う。一般化する時点で個別的な細部にまで注意を向けていないことが透けてみえていやがられるんじゃないだろうか。いや、実際にそういう男と一緒に喋ったことないから想像だけれども。ううう、せっかく綺麗に忘れていたのに思い出してしまったぞ。朝から幸先の悪いことだ。

亡くなった夫は、わりと喋りだすと止まらないたちではあったが、こういうことをいう人ではなかったなあと思う。いや亡くなってから7年たってるから美化入ってるかもしれませんが。どんぐりのような目を一層大きくして「そうなんだあ」と相槌を打ちつつこちらの話に聞き入り、たまに「○○さんは一緒だったの?」とか未知の事象について質問をするという風だったように思う。そうして話している間、愉しい話は嬉しそうに、残念な話は心底悲しそうに聞いていて、特に後者は自分が当事者であるかのようにきゅうっと萎れてしまうので、そこでこちらがなんかフォローしてあげないといけなかった。話が終わると「よかった」等々なんらかリアクションを返して、それで終りだったように思う。

明らかに失敗談のときは、話の締めとして「○○になんなくてよかったね」「次は○○しようね」というつっこみが来ることもあったが、それは夫婦なんだから、お互いそれくらいの軽い苦言や提案が来て当然なんじゃないかとも思う。恋人未満の状況でそういう突込みがきたら、あるいは人によってはたんに僭越だと思うのかもしれない。この話全体も一般的な話としてではなくて、たんに思い出話を書いたのだということにしておく。

一日一チベットリンクFasting and Prayers Held in Tokyo. チベット人亡命者によるウェブサイト Phayul.com (英語)で先月30日の護国寺法要が紹介されています。

*1:セーブした後で、実は知人にいたということを思い出した。あまりいやなので忘れてしまっていたらしい。