南港にて
二日間のイベントが終わって、打ち上げの晩。
飲んで食べて、語って。わたしもまた。とめどなく語るその内容はいまここにいない人の思い出話。あれこれと他愛のない日常の一こま。いろいろ出てくる固有名はあるいは代替可能なのかもしれない。けれどそれなしには話が進まないことも判っている。
語る。語り続ける。陽気に。ほがらかに。自分以外の物、自分以外の人について。『しあわせな日々』のウィニーのように。いつ果てるともなく。笑いながら喋り続ける。
隣にいる古いといえば古い・新しいといえば新しい友人は、それを制止するでもなく、時折相槌を打って、その相槌がさらに連想を呼んで私の話はさらにとめどもなくなる。
たくさんの固有名。まるで中心にある埋めがたい空虚とそれらが釣り合うように。一つの挿話にいくつかの固有名、空虚にそれらが飲み込まれて、話に落ちがつき、また新しい挿話。再びたくさんの固有名。それらのがらくたで、いつかその空虚がふさがるかのように。
でもそんなことはないことを、私もその友人も知っている。確かめたことはないが、そうだろうと思う。空虚は埋まらない。無は無を補填しない。あるものはあり、あらぬものはあらぬ。そして私たち過ぎ行くものは、ありて、またあらぬもの、而してあらぬもの、過ぎ去るもの。ここにいない人はもうここにはいないのだ。彼について語ることは、彼を呼び還すことと同じではない。友人は、私を姓で呼ぶようになった――宴が果ててひとりになってそのことに気がつく。そうして、過ぎた年月のことを、改めて思う。
宴の席で、気がつくと私は泣き出していて、「酔ってるわねわたし、ごめんなさいね」という声はとはいえいまだ笑い含み、その肩を隣席の友人が慰めるように軽く叩いた。