大宴会。 

やろうと思っていたことはあったのだが今日が金曜日で21日だということに気づいた瞬間、心がかじかんだようになって何もやる気が起きなくなった。

というわけで以下は駄文というか雑感というか。NATROMさんの2008-11-20を読んで思い出したこと。

亡夫が亡くなったのは12月の末、21日、金曜日、誕生日のちょうど一週間前。鬱病だということを知っていたのは私と直接の上司だけで、それも上司へ打ち明けたのは死の二日前。大方の人には彼の死は最初事故だと受け止められたらしい。職場で親しくしていただいていた先輩が、その日もたれた緊急会議へ呼ばれて事情を訊かれたということだが、その方もその時点では何もご存じなかった。

私は比較的自分をよく律して淡々と事務的に物事を処していった……つもりではあったが、今から考えると激しく動揺していたのだろう。後知恵ではあるが、あんなに何もかも即断することはなかったし、また事を急ぐこともなかった。7年たったいま、なぜ自宅へ連れて帰らなかったのだろうと、ときどき後悔で胸がふさがることがある。もっとも警察で彼と対面したときにはすでに湯灌が済んで棺の中に収められており、家へ連れ帰っても布団に直してゆっくり寝せてやることなど出来なかったのだろうし、あの狭い路地に車を入れることも難しく、そのまま斎場へ送るというのは結局現実的な判断ではあったのだろうが。ともかく、死亡の次の日にはうちうちで葬儀を営んだ。近親者と職場の同じセクションの方と同窓のごく内輪の友人だけにお知らせして、30人弱、これは32本頼んだ花が少し余ったので間違いない。みなさま年末のお忙しい時期であったが東京にいたおひとりを除き、駆けつけてくださった。出張先から急遽戻り、スーツに急ごしらえの喪章をつけた方もいた。これも今考えれば翌日土曜日を通夜にして翌翌日の日曜日を告別式にしたほうが皆様の便のためにはよかったのだろうが、たぶん私は彼の死そのものをどこかで拒否していたのだろう、ともかく何もかも早く片付けてしまいたかったのだと思う。

葬儀場で私は彼を火葬にしてくれるなと棺に取り縋って狂乱するのだが、そのことはここでは詳述しない。教科書通りの死別反応というだけのことである。自宅へ帰ってきた私が激しい希死念慮に悩まされたことも、だから取り立てて説明しなくてよいだろう。これが愛情とかいうものではなく、むしろ反射的な反応であるということも理性ではわかっていて、なので友人達に頼んで夜の付き添いを手配するくらいの世間知は私にあったのだが、もちろんそれは分別だけのことであって、包丁を見ると咽喉に突きたてたい衝動にかられる日が数日続いた。それでしばらく料理などはせず、入れ替わり立ち代わり来てくれる友人たちに頼りっぱなしの日が続いた。夜は夜で、弔問客があって、ほぼ毎晩、友人たちに囲まれてやくたいのない話をした。いくつかのメーリングリストに流したものを除き、とくに彼らに個別に知らせたというわけではなかったが、近在の知人友人を伝わって彼の死自体はゆっくり広まりつつあった。

彼の職場には翌週以降もなんどか足を運んだ。死亡退職に伴ういろいろな手続きもあったし、私物を片付ける算段などもしなければいけなかったし、その折には、たまさかにわたし個人がお付き合いをいただいていた方と職場の方でお話をすることもあった。落ち着いて座って話をしていると、私は悲しいのだということがにわかに実感をもって感じられた。彼がいないということがみんなよくわかっていて、でもまだそれは突き刺さるような痛みを伴ってでなければ口に出せないようなことであった。

悲しいということをひとこともおっしゃらない方もいて、件の先輩氏などはそうであった。彼を交えて話をしていたときには、いつも快活で多少饒舌ですらある人が、言葉すくなに事実だけを訥々と話すのを聞いていると、ああもうほんとうにあの人はいないのだということが私の胸の中に押し寄せてきた。「……さんがお参りに来たいといってるのだけど、いいですか」と先輩氏がいった。この人に敬語で話し掛けられるってあっただろうか、とおおよそその場に似つかわしくないことを私は考えていた。諾って、その次の日だろうか、その先輩氏と友人とお二人で、拙宅にお見えになった。もうひとり偶然に弔問客があって、それはたまたま近所に住んでいて夫と親交のあった、とあるRPG同人サークルの方であった。四人で何事か話し込んでいると、電話が鳴って、それはやはりRPG関係の友人だった。

「……メーリングリストで、……さんが『死因は何?』って尋ねてるんですが、どうしましょう」

体中の血が下がっていく感じがした記憶がある。その場では知らないそんなことを訊くこと自体どうかしてるんじゃないですかといえくらいのことは云って、電話はすぐに切った。そこにいた三人に当たって、まあ三人ともそういうときだから逆らわない。その三人は実はそれぞれに、それを最初にメーリングリストで訊いてきた人物とは面識があったらしいが*1、その話がその場で出なかったことからすると、そんなことが吹き飛ぶくらい私がその電話自体に苛立っていて、もはや誰がということはその場ではどうでもよくなっていたのだろう、最初の質問を誰がいったということ自体については言い及ばなかった記憶もある。その質問の主に対しては、それほど親しいという間柄ではなかったこともあり、しばらく逡巡したあと結局年明けくらいにメールで百年分くらいの罵声を浴びせた記憶が私のほうにはあるのだが、それをきちんと受け止めてくださったというのは立派だなと今でも思っている。それで和解して、その方とは現在に到るまで細々とではあるが親交が続いている。

あとになってみれば、その人も特にどうしても死因が知りたかったというわけではなく、たんにただとてもびっくりしたというだけのことだったのだろう。あるいは詳細を聞かなければ到底本当のことと受け入れられないということだったのだろう。若すぎる死を受け止めるのは難しい。そうして死因をいうにはばかるというのはそれだけで不幸なことである――何であろうと「いうべからざること」があるという感覚が人を幸福にすることはあまりないんじゃないかと思う。限界があるという感触それ自体が苦痛と不幸の元なのである。私はいまは亡夫の死が自死であったことを隠さないけれど、亡夫の死因どころか死亡の事実そのものに触れてもらいたくない時期も長かった。この日記を当初筆名で*2始めた事情にもそれは絡んでいる。話は前後するが、その当時プライバシーを守ることに協力してくださった方々には深く感謝しているし、またそういった事情をわきまえずに他人のプライバシーに踏み込むような発言をした人にはいささか含むところも持っている。とりわけ、自分が誰かということ――それは私の場合、夫の死を認めることと絡んでいる――をどのくらい開示するかについては私の場合数年に及ぶ揺れがあったので、それに辛抱強く付き合ってくださった方々には感謝している。その上で、自分にそういう経験があっても、つい一線を踏み越えてしまうことがあるという己の危うさには振り返って改めて慄きを感じるしかない。人間、自分の痛みと他人の痛みは、やはり感じる深さが違っていて、自分がそういう罪深い存在なのだということをわたしたちは時に忘れるが、しかし弱さと愚かさはそれ自体罪、ギリシア語でいう「あるべきでないこと」hamarteia なのだと振り返って気づかされる。

さて、その電話のやりとりがあって、数日後*3初七日兼彼の迎えなかった36回目の誕生日に寄せて持ち寄りで宴会をやった。20人くらい来たのじゃないかと思う。数日前に来たばかりの*4件の先輩とその友人も再びお土産をもって覗きに来てくださった。わたしも久々に料理をして、彼が丹精して研いだ包丁の刃は鈍く光ってそれはなかなか蠱惑的ではあったけれど、今晩は沢山のお客をするのだという気持ちの張りがなんとか私を支えてくれた。文化住宅の一間、4畳半だけでは20人の客は入りきらなくて、台所や、階段や、ひょっとすると二階にまで一時期溢れていたかもしれない。死因のことはやはり質問が出て、希望者には死亡診断書を回覧した。しばらく無言のうちにA3の紙片が回覧されて、その後はいっそうの大宴会。新婚旅行のときに買ってきたサンテミリオンの1991年を空け、みなの持ち寄った料理を食べて、馬鹿騒ぎといったほうがいいような晩が終わり、大方の人が引き上げた更夜、私は一見空騒ぎのようだったその晩の狂騒、オルギアの中の熱こそが有限な生の困難を持ちこたえさせてくれるのではないかとぼんやり考えた。ハレのためにケがあるだけではなくて、ケのためにハレがある。そんなことを、隣に付き添ってくれている若い友人に云って見たが、夜の三時、仕事収め直前でくったり疲れている彼女からは特に応えは返らなかった。

*1:世の中には知り合いと知り合いの知り合いと知らない人しかいないというのは、おそらく正しい。

*2:もっとも学生時代から使っているハンドルなので分かる人には分かっていただろうが。

*3:23:46 追記。数日後ではなかったかもしれない。書いたときはそうだと思ったのだが、あるいは電話のやりとりは年が明けてからだったかもしれない。いま確実なのは職場でその先輩と会話したこと、先輩とご友人と拙宅を訪れたのは最低二回あること、電話を受けたときには私の他に計3人がいて、そのときは知らなかったが、みなに共通の知人がもうひとりいたことまでである。/ 22日2:26 さらにその後思い出したことがあって、そこからするとやはり宴会の前に一度その先輩から弔問をいただいたようである。

*4:23:46 追記。はっきりしないのでここは一度消しておく。