しあわせの総量(追記アリ

うまくまとまっていなくて、でも数日来ずっと気持ち悪いので、書き留めておく。

ブータンをほめる人、とりわけ「国民総幸福」(Gross National Happiness)をほめる人が、ちらちらネット上に目に付く。金銭的な富の獲得を生の第一目標におかない、というのは自体には反対する余地があまりないけど、わたしはこの概念が嫌いだ。いままでも嘘嘘しく嫌なものを感じてはいたが、はっきり嫌いなのだとこの数日考えてわかった。

だって「国民」「総」「幸福」ですよ? 個人の幸福じゃないんだよ? 嘘寒いとしかいいようがない。幸福てグロスで、つまり足しあげて評価できるようなものなんだろうか? そこがまず信じられない。なんというかプラトンの国家篇が追求したような幸福がそこにはあるんじゃないかという疑いが捨てきれない。つまり国家の、「国民全体」なるなにかの幸福がまず定義されていて、個人がその部分として規定されているような世界。

考えすぎだろうか。いやそうではないんじゃないかという気がひしひしとしている。プラトンの場合は文化のありようが国家によって厳しく統制されていて、国の文化を危機にさらすような表現や外国の新奇な文化の流入は法によって禁止される。ゆえに国家の護持する文化と違うものを広める詩人には、民衆に影響を及ぼしうるその至芸ゆえに「羊毛の冠をかぶせて」お引取り願うということになる(詩人追放論)。ブータンのばあいはどうだろう、文芸等については何も情報がないけれど、三民族いるうちの一民族の言語だけが公用語とされているというのはなにやら不安な気持ちをわたしに抱かせる(もっとも教育現場ではその言語も使われず、英語のみが使われているらしいが――若い世代にとっては、公用語とされた民族の言葉ですら、もっぱら口頭でのみ使われる言語となっているらしい)。さらに、習俗ということでいえば、北部の多数派である民族には公式の場での民族衣装着用が法で定められている。文化の保全が目的だというが――それは服装において表現の自由を国家が認めないということだ。それが「国民の総体の幸福」の基礎だといわれ、なにかよいものであるようにいわれることに、私はむしろ慄然とする。

そうして、多民族国家でありながら、そのなかの一つの民族の文化のみを国が保護と振興の対象とするということも、わたしをたじろがせる*1。最大多数の幸福が社会の目標とされる、というのは一見聞こえがよいけれども、それが残る少数への放置や遺棄であったり、あるいは多数派文化の強制でないという保証はどこにもない。ブータンがそうだというつもりはない。だが、そうでないという話もわたしはまだ聞いていない(この二文の消去については追記参照)。

私は個人としては保守的な価値観の持ち主で、どちらかといえば社会の多数派と多く価値観を共有しているように思う――けれども、信仰や思想の上で、また性別の上では、同時にわたしは少数派に属していて、少数派であることの痛みをその限りでは知っているつもりである。また、状況の変化によって、多数派と少数派の境が簡単に引き直されることも、いちおう頭ではわかっている。だから法によってあからさまに多数派文化が強制されるというブータンの国制は、わたしにとってはむしろ恐怖を抱かせる。それが社会の安定に寄与するというのは意見としては理解できるが、表現の自由がそのような形で国によって制限される社会というのは、私にとってはやはりむしろいいようのない恐怖を感じさせる。たんに服装くらい、とは私は考えない、それはやはり個人のありようを個人が表現しうるひとつの手段なのだから(その手段を積極的にだれもが活用しているかどうかはまた別問題だ)。

それともブータンの幸福を嘉する人は、国家に自分の生活が統制されることをいとわないのだろうか。いま現在の生活様式に満足しているかどうかとは別に、その様式の変更の可能性が他者によって強制的に閉ざされることをいとわないのだろうか。そうしてそれを「幸福」とみなすのだろうか。他者に自分のありようをたとえ一部であろうと強制されることを。そうして多数派の「幸福」がそのまま「国の幸福」と同一視されることを。それとも、その強制が自分にとっては強制ではありえないと、自分はいつでも多数派の側にいるのだと、安心しきっているのだろうか?

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23:06 追記:
難民問題があると何人かの方に教えていただいた。日本語で読めるものとしてはネパールのブータン難民がもっともまとまっているようだ。

危惧していた多数派文化の強制だけでなく、強姦を含む少数派弾圧の指摘もある。民族浄化という批判もある。

「国民総幸福」がいわれるようになって後、少数派である二民族は、あるいは国外に逃亡して難民となり、あるいはブータン国内で市民権を認められることなく居留者として低賃金労働に従事している。それは10万とも12万ともいわれ、以前の人口の約2割に相当するという。「ブータン国民の9割以上が現政権を支持」(一例:ブータン・・・ナメててすみませんでした・・・ | isologue)というのは、そうした少数民族を除外した後の多数派のみを「国民」として集計している可能性を留意する必要があるかと思う。追記ここまで。

*1:そう、わたしが日本国民であることをこの点で居心地悪く感じていることを、聡い読者のみなさまはお気づきであろう。「なぜアイヌ語ウィキペディアはないの? 日本のウィキペディア・コミュニティはあんなに大きいのになんで?」といわれると、もう身の置き所がない気がする。