唱えよ、友と

さらば開かれん、とこれは『指輪物語』の一節だけれど、それを思い出した。はてな匿名ダイアリーの「ブログを閉じようか悩んでいる」という投稿。

数ヶ月前から荒らしコメントがちょこちょこと入る。炎上しないように言葉遣いや内容には気を使っているし、他のコメンテーターの人は好意的なので、なぜそこまで執拗に叩きコメントをされるのかが何度考えてもわからない。多分私に非はなさそうだけど、元々自分に自信がなくて小心者だからか、その得体の知れない悪意にストレスを感じている。さらにプライベートでキツいことがあって疲れた心にジワジワと侵食してきてモヤモヤが続いている。閉じたら負けかな。だけどブログを書く楽しさよりもストレスの方が大きくなってきたからなー・・・。

http://anond.hatelabo.jp/20090326181549

ブックマークコメントをみるに、コメント欄閉鎖を促す方がいて、確かにそれは技術的解決策ではあるけれど、この個別の場合に事態を収束させる力があるかどうか分からない。筆者が匿名ブロガーなのか顕名なのか、荒らしコメントを入れている人は実は知人なのかいわゆる「通りすがり」の人なのか、他のメディアに波及しているのか(掲示板から、実空間の自分を訪ねてくるまで、いろいろな拡がりがありえる)、いろいろな場合があって、上の投稿からはそれは不明だし、そうした諸々の場合に通じるたった一つの冴えたやり方があるのかどうか疑わしい。ブログ閉鎖してはという声もあるようだが、ブログ閉鎖のあとも(身元が割れている場合)嫌がらせが続くことだってありえる。

わたしも15年ネット上で活動していれば、その間いろいろなことがあって、いやな思いも何度かした。大したノウハウが蓄積できているわけでもない――というのは、こういう場合におそらく一番問題なのは、個々の荒らし行為への対処ではない(嬉しい作業ではないけれども)、相貌を持たない悪意に立ち向かうということの辛苦がより問題で、それは何度経験したからといって慣れるというものではないからだ。他人のどす黒い悪意にうっかりと目を投じてしまったときの、その嫌な感触に、わたしはいまだにふさわしいことばを知らない。ただその過程でわかったことは(そのコメントが他者に信じられる可能性とその被害ということを取り合えず度外視すれば)、問題はその悪意に感染したときの自分のストレスへの対応にまずあって、なのでその部分に関しては自分でコントロールすることもまったく不可能ではないということだ。ちょうど、ブログのコメント欄が(たいていのシステムで)ブログ設置者の制御下にあるように。

匿名氏が、匿名でとはいえ、荒らしコメントに悩まされていること、それをつらく感じていることを表明できたことはよかったと思う。振り返って考えれば、自分の場合は、悪意にさらされていることでストレスを感じているということを他の人にいうことが出来るようになるまでが大変だった。わたしの場合、たまたまそれが実生活の大きなストレスを抱えていた時期と重なったせいもあるけれど、そのことを親しい友人に打ち明けられるようになるまでに、数ヶ月を要した。ひどい場合は、一年以上間が開いたこともあった。友人たちを信用しているいないということではなくて――自分が誰かのゆえない悪意を蒙ったというその理不尽を言語化できるまでに突き放して眺められるまでに、そのときのわたしにはそれだけの時間が必要だったということになる。

言語化してしまえば、なにほどのことはなかった。同情の声が嵐のように押し寄せる――ということはなかったけれど、みなが心の隅にそのことを留めてくれて、それだけでずいぶん楽になった。あちこちのネットサービスに通じていろいろなサイトで怪しい動きをしているアカウントについて情報を寄せてくれる人もいれば、法学者の友人*1は告訴告発から「何かおいしいものでも食べて、気にしない」までありとあらゆる可能な対応を考えてくれたし、弁護士を紹介してくれる人も複数いた。そうして、個別のそのような気遣いが心に染みたことは無論だけれど、「そういうことありますよね」という何人かのひとことが私には大きな救いになった。友人達の同情と支援、さらには理解に支えられて、それではじめて、荒らしは荒らしで、たんに音だけ騒がしい風のようなもの、私にも私の大事なひとにも寸毫たりとも疵などつけられないのだということが、ようやく内心の確信をもって納得されてきた。

だからいま、ちょっとしたことなら私は彼らを煩わそうとは思わない――けれども、私が耐えられないときに助けを求めれば、彼らは手を差し伸べてくれる、あるいは逆にわたしが決定的になにかを踏み外してしまいそうになったときには、苦言してくれる、そのことを私は信じ、安らいでいられる。倨傲を装うでもなく卑下するでもなく、尊大にでもなく卑屈にでもなく、ただ素直に「友よ」と呼びさえすればいい。否、すでに友人なのかどうかが問題ではない、真実に求められたときに、他者を拒む者などそうはいないのだ。

だから、匿名氏が、匿名でとはいえ、荒らしコメントに悩まされていること、それをつらく感じていることを表明できたことはよかったと思う。匿名氏を直接にもっとよく知っている人に相談できればなおよいだろう。わたしの場合、いくつかのそうしたネット上のいやがらせの悩みは、たんに誰かに話を聴いてもらうことで十分解消されえた。ネットに書く人でも書かない人でも、信頼できる人に話を聴いてもらうのがいいのじゃないかと思う。実生活では相談できないというのなら、ネット上でもいい。ブログの他の読者が誠実に読んでくれていると信じられるなら、それこそコメント欄で他の読者に相談してもいいだろう。自分ひとりで悪意に立ち向かうというのはなかなかに大変なことで、そうしてひとりで立ち向かえばこそ、その苦痛を他が知ることはなかなかに難しいようだ。なので、そうした悪意に晒されている方にはいいたい――あなたはひとりなのですか、誰かあなたの苦痛を理解してくれるひとがいるのではないですか、そうした人に相談なさってはいかが、と。案外だれかに話をするだけで次にすべきことが自分にみえてくるかもしれないのだから。

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*1:追記:在京の方。誤解を招いてもおもしろくないので公開後だが注釈をいれておく。いつもおいしいところに連れていって下さって、ありがとうございます。