外国語学習について新書を読んでみた

いまさら感があるのだけれども、外国語学習に関する岩波新書を今週は二冊読んだ。千野栄一『外国語上達法』と白井恭弘『外国語学習の科学』。

両方とも良書で、いまから外国語学習に取り組む人・仕切りなおす人にはとくにお勧め。またこれから外国語学習を始める子どもをもつ方にも勧めたい。現代の外国語学習がどのような知見に基づくものなのか、案外知られていないのではないかということに、読んでいて気がついたものだから。そして改めて、自分の学習法は(もちろんかなりに我流なのだが)さほど間違ってもいなくて、このブログで紹介してきたこともそれほど無茶なことを云っていたわけじゃなかったのだなとほっとした次第。いや細部にはもちろん瑕疵もあろうけれど。

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

千野栄一『外国語上達法』は1986年1月、私が大学に入る直前に出版された。在学中にこれを読んでいたら、もうちょっと楽が出来たかなと取り返しはつかないが苦笑した。先輩たちから聞いたコツのようなものも、これを知っていたらもっと有機的に結び付けられたかも。なにしろ大学に入ったあと、近代語古典語併せて計4言語を新たにものにせんならんかったので、わたしの学部時代は語学修行で明け暮れたようなもので、こうした効果的な上達法を知っていたら、週にあと半荘のひとつも打てた本のひとつも読めたのじゃないかと残念でならない。

新しい知見もいくつかあって、「レアリア」についての章は極めて興味深く読んだ。前から感じていたことだけれど、外国語を読み聴きする場合・また外国語でなにかを伝える場合に、その根底に横たわっている圧倒的な文化の積み重ねがちらちらと影響してくる、その大事さを改めて思った。神は細部に宿るとでもいえばいいだろうか。外国語に限らない。最近書いたエントリで、神戸市須磨区にある野球場とそこに常住していたチームのある選手の言行を書いたが*1、これがその土地になじみのある人にはすぐに底意が伝わったものの、そうでない方にはやや難しいことだったようだ。言語生活の実相ともいうべき、「ある時期の生活や文芸作品に特徴的な細かい事実や具体的なデータ」(千野栄一『外国語上達法』p.178)を知っていて初めて十全に機能するような言語の使用というものがある、それは言語を跨がず、ある特定の言語――ここでは日本語――の中にとじていても変わらないということを改めて気づかされた。まことに言語の複雑さに触れることは、世界の奥深さに触れることなのである。

また実用的なことをいえば、千野本での「まず単語1000を覚える」「頻出語リストのある言語ではそれを入手し活用する」「活用の多い言語では早期に(最初の1ヶ月か2ヶ月で)活用表を覚える」というのはこれまで自分にない発想で、なるほどと思った。とはいえ考えてみれば古文の学習でまずは助動詞の活用をひたすら覚えさせるというのは同じことをしていたわけで。怪我の功名とはこのことかな。自分ではちょうどいまスペイン語の初歩を習っているところなので遅まきながら応用して見たいと思う。

著者の千野さんはご自分は語学の天才ではないとおっしゃるのだが、いやなに、一言語を半年でものにできるのはすごいと思います。わたしはスペイン語を始めて半年弱経つのですが、線過去と点過去*2あたりでもう微妙に振り切られ始め、接続法でかなりあっぷあっぷしています。たぶんこれは1年かけないとだめっぽい。あれだな、才能のある人は自分を凡人だと思いたがるの伝なんだろうな。

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

つづいて白井本。わたしもいちおう学部では「外国語としての英語教育」(Teaching English as Foreign Language) について授業を取ったので、そして80年代のそれも前半というのは外国語、正確には第二言語習得論の画期であったようだ、『外国語学習の科学』で紹介されている論文には授業で読まされたものもいくつかあり、懐かしく読んだ。それから20年、もちろんいろいろな進展があって、興味深く読んだ。クラッシェンが現在は第二言語論から遠ざかっているというのはやや驚き*3

第二言語、つまり母語以外に身につける言語の習得について、その条件・過程・理論の変遷・そうした理論に基づくさまざまな学習法・教授法が手際よく紹介されている。この本は、学習者の方だけでなく、これから外国語学習をする子どもをもつ親の方に読んでもらいたいと思う。「英語で教える」「コミュニケーションを重視する」という最近のアプローチに、どうもブログ界では「文法を教えるべきだ」「文法を知らなければ結局使い物にならない」等の反発が定期的に起こるように思うのだが、その懸念はひとつにはこの数十年での外国語学習メソッドのめまぐるしい変化とその根底にあるメインストリームの学習理論が理解されていないことから来るのではないかと思っている。私は英語こそ文法中心で教わったものの、ドイツ語については文法読解方式とコミュカティヴ・アプローチの両方を経験しているので*4、そうした懸念も分かる一方、しかし言語習得という点では後者がより効果的だと自分では考えている。たとえば前者では授業のなかでドイツ語で考えるということがどうしたって起こりにくいのだ。ただ、こうしたことは経験談では説得力に限界があるので、なぜ従来の文法練習中心の方式は廃されてコミュニケーション重視がいわれるのか、言語習得論の知見に実際に触れることで納得していただくほうがよいだろうと思う。

もうすぐ年度が改まって、仕切り直しにはよい時期です。この週末は自分の学習計画を改めて考えてみようと思ってます。さて、図書館に本を返しにいってこなければ。

関連エントリ:

*1:イチローの気配り - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

*2:ラテン語の未完了過去と完了に相当。

*3:マイナーな話題ですみません……でもちょっと感慨深かったのですよ。

*4:そしてそこで取られた「インタビューと作文」などの練習方法が現代の言語習得理論に適ったものであることを改めて確認した。