自分が語る、他人に語る
朝、Twitterのタイムラインをみると、サリン事件関係のリツイートをたくさんされている方がいました。それで今日の日付だとおもっていた15年前の個人的な思い出―9年前自死した夫にまつわるささやかな思い出―は実は昨日だったということに気づいた*1。どうもきちんと日付を覚えてないんですよね、なぜか。ということはおいて。
みているとなんだかいろいろしんどくなってきてしまったので、リツイートだけ切ってしまいました。いつの頃からか、フォローしている方のツイートとその方のリツイートの講読を分けて設定できるようになっていて、こういうときには便利です。*2
サリン関係、読んでいてしんどかったというのはわたくしだけでもなかったようで、タイムライン上で同じことで困っている友人がいたので、リツイートだけ切れますよと教えてさしあげました。そのときに友人が漏らしますのに、大事なことだけれども、知らない人のを読んでも……。それを聞いて、ああそうだな、そういうこともあるよなと思いました。
サリン関係のような犯罪被害にしても、うつ病患者やその家族やあるいは自死遺族にしても、語るというのはその出来事を受け止める上で大事なことです。語ることで癒されていくという実感はわたしにもあります。そのような喪失と回復の過程で為すいろいろなことどもを喪の仕事(グリーフワーク)というそうです。で、とにかく語らずにはおれないという気持ちだけではなくて、聴いて下さっている人と対面しているときはとりわけ、どこかに自分を、そして彼を、理解してほしいという思いもたまに兆します。
一方で、受け取る側にしてみれば――語る人と距離がある人ならなおさら――、そういう混沌としたもの、語る本人ですら圧倒されるようななにかを到底引き受けかねるという思いもあるよねと改めて感じました。悪気ではなくて、自分のキャパシティを超えるから、遮断する。それ自体は正当なことだと思います。誰でも自分をいたわる権利があり、私人である限りは無理に他者の声をきけと指令されるいわれもない。けれども、そのことで、届かなくなる思いがあるというのもまたつらいことではあります。
ではどうしたらいいのか。わたしにもよくわかりませんが、関係者の自己表出そのままではなく、拒絶される可能性をも含めて他者に語るという一手間を別にかけることでより広く多くの人に思いが届くのではないかなと思いました。当事者が痛みを語りだすその生々しい感触は、つねには受け入れられるものではないという覚悟を、ようやく語り始めたそれぞれの個人に背負わせるのは、やや残酷で無理な要求でしょう。その是非とは別に、当事者なり、あるいは関心をもってみている第三者なりが、なにがそこでいわれているのかを関心を共有しない人へ向って語りだすという営みはあってよいように思うのです。ていうかすぐれたジャーナリズムというのは一面でそういうものだよね。たぶん。
あるいは、そのような社会とその不条理へのいわく云い難い痛みを結晶化させるのが、芸術の一つの機能ではないかとも考えますが、その話はまたいつか。
追記:って、ん、いま調べたらサリン事件は3月20日におこってるんだよね。でこれは19日でセーブされてるよね。……わたしの記憶は間違ってなかった。うん。