ホームレスと労働

まず、以下でいう労働というのは労働市場における賃金労働のみをいい、家庭内の主婦の労働や無給ボランティア活動などを指さない*1

その上で、id:chnpkさんの発言。

ホームレスとはつまり、労働をしないという意志の象徴的存在であって、概念としての非道徳、即ち悪なのである。

ホームレスに人権があるだなんてただの屁理屈だよ - よそ行きの妄想

妄想はchnpkさん、あなたのほう。ホームレス、とりわけ都市のホームレスが、ゴミ回収やあるいは日雇いなどの賃金労働に従事しているのはすでに各種調査や統計などで指摘されている*2

2007年の厚生労働省の調査によれば、ホームレスの7割は就労し、その平均月収は約4万円である。

(3)仕事と収入の状況

○ 仕事をしている者は70.4%(64.7%)
        → 主な内訳は「廃品回収」が75.5%(73.3%)と最も多い

○ 仕事による収入月額
・「1〜 3万円未満」 29.8% (35.2%)
・「3〜 5万円未満」 25.1% (18.9%)
・「5〜10万円未満」 21.5% (13.5%)

        → 仕事をしている者の平均収入は、約4万円

ホームレスの実態に関する全国調査報告書の概要

そして、3割以上が定職を望み、2割弱が現に求職活動をしている。

6 自立について
○ 今後どのような生活を望むか
・「きちんと就職して働きたい」という者 35.9%(49.7%)
・「今のままでいい」という者 18.4%(13.1%)
○ 求職活動状況
・「求職活動をしている」者  19.6%(32.0%)
・「今も求職活動をしていないし、今後も求職活動
 をする予定はない」という者 59.8%(42.0%)

ホームレスの実態に関する全国調査報告書の概要

上の調査にもあるように、ホームレスの過半数は賃金労働に従事しているし、さらにそれを超えて定職につくことを願う方も、心のなかに願うだけでなく実際に活動を起こしておられる方もいる。

id:chnpkさんの発言をもういちど引用する。

ホームレスとはつまり、労働をしないという意志の象徴的存在であって、概念としての非道徳、即ち悪なのである。

ホームレスに人権があるだなんてただの屁理屈だよ - よそ行きの妄想

だがほとんどのホームレスは実際には働いている。「象徴的存在」とはよくいったものだ。ここでいう労働をしないホームレスとは現実の存在である以上に chnpk さんの想像界のなかの存在だからだ。だが我々が対処すべきなのは chnpk さんの想像のなかにいるホームレスではなく、いまここにいる、近所の児童公園で寝ているホームレス、不燃ごみの回収にやってくるホームレス、そうしてそのあと近隣の公共図書館にやってきて涼んでいるホームレスなのだ*3。あるいは問われるかも知れない、就労していないホームレスもいるではないか? 私は問い返す、就労していない大卒者や主婦というのは、では「労働をしないという意志の象徴的存在であって、概念としての非道徳、即ち悪」なのか? そうではないだろう、そして、仮にそうだとしても、少数派の行動様式で多数派を規定し、その群全体を非道徳と決め付けることに、どんな正当性があるのだろう。ところで道徳の根底にある帰責性とは、個人の自由に求められるのではなかったか? そうであれば、少数派だろうと多数派だろうと、その行動によってではなくある外形的な性質によって規定された人々の集団に道徳性うんぬんをいうことは、たんなる錯誤なのではないだろうか?

非道徳というなら、現実を踏まえずに概念をもてあそぶことこそ非道徳なのではないかと私は疑う。妄想といっておけば、事実に基づかないことを公に言いふらすことが許されるわけではないのだ。

*1:わたしはそれだって人間の活動として評価されてしかるべきと思うけれど。

*2:おかげで不燃ごみの回収日に朝早く散歩すると、明らかにその手の仕事に従事しているであろうホームレスの方が近所の公園で寝ていたりして、比較的都市部に近いにもかかわらずシェルターもろくにないという状況に暗澹となるが、それはまた別の話。

*3:もっとも図書館についていえば、すべてのホームレスが図書館にやってくるわけではない。橋の下や公園や地下道や他のいろいろなところに彼らはいる。

新年おめでとうございます

というのかどうか。とにかく東方正教会的には9月1日が新年の始まりで、ギリシャ正教会アメリカ正教会*1など修正ユリウス暦のところでは、今日が新年の始まり。もうあと数時間たつと、シナイ山でもアトスでも荘厳に新年感謝祈祷が行われると思われる。

さてid:mallionさんのところでにわかに三位一体論で盛り上がっていたのだが、そこでおもしろい発見があった。議論に参加した、かなりの非キリスト教徒の間で三位一体とは「創造主・キリスト・聖霊」だという誤解が共有されていたのだ*2。それはちょっと違うよねえ、至聖三者は一体としてまた各位格において創造主なのだが、という趣旨でコメントして、次のようなお返事をいただく。

これは外部の人(非キリスト教者)は分かりにくいし、私も誤解していましたが、しかしそう考えるといろいろしっくりします。

これ(引用者注:三者が一体として創造者である)は東方、西方どちらの教会もそういう理解だということでよろしいのでしょうね。なるほど。

キリスト教とマルキオン教 - まりおんのらんだむと〜く+

議論のなかでも言及されていたニカイア・コンスタンティヌポリス信経から引く。訳は正教会のもの。強調は引用者による。

我信ず、一《ひとつ》の神・父、全能者、天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を。
又信ず、一の主イイスス・ハリストス、神の獨生の子、万世《よろづよ》の前に父より生まれ、光よりの光、真《まこと》の神よりの真の神、
生まれし者にして造られしに非ず、父と一体にして万物彼に造られ
(中略)
又信ず、聖神、主、生命《いのち》を施す者、父より出で、父及び子と共に拝まれ讃められ、預言者を以て曽て言いしを。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - Wikipedia

強調した部分をみてほしい。聖三者、父と子と聖神はそれぞれ「天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主」(父)、「万物彼に造られ」(子)、「生命を施す者」(聖神)として定式化される。それぞれが、それぞれの仕方で創造に参与し共働する*3、それが、創造と神に関して、この文書、東西共有のものとしては最古*4の信仰箇条*5が述べていることだ、と私は理解していますが、信者でも神学者でもない人のいうことを鵜呑みにしちゃいけないよw*6

*1:ロシア正教会の流れ。アメリカにはほかにもいろいろな正教会の出店がある。移民の国だからね。

*2:なお一部プロテスタント教派では「父・イエス聖霊」というような表現がされるらしい。それどうだかとは思うのだが

*3:この次に教会についての信仰告白が来るのは、理由のないことではない。自立存在である聖三者の愛に満ちた共動が、聖神の守りのうちに、神の肖像として作られた人間の営みを通じて被造世界において象られる場が教会と呼ばれているのである――と理解する。もっともこれは理想状態における教会像であって、世の現実のすべての信徒共同体は、この遠い目標に神の恩寵によって近似することを信じつつ、あっぷあっぷしているのではあるが。

*4:おおっと。最古の共通の信仰箇条は325年の(原)ニカイアであって、381年のニカイア・コンスタンティヌポリスではない。お詫びして訂正。なお後者は前者を増補拡充したものである。

*5:使徒信条は公会議決定により承認されておらず、東方教会では用いられない。

*6:それはmallionさんが次に引用されているウィキペディアの一節も同じで、信者さんの補筆が入った東方的理解についてはともかく、西方については私が2005年に書いたものがそのまま残っているのはどうなんだろうそこんとこ。この国にいるキリスト教徒の99%、百万人以上は西方教会系の信者さんのはずなのだが……