メモ。

Bにとって、我性に死ぬこと自体はキリストの受難によって可能にされており、したがって神の絶対の恩寵のうちに可能な事態であるが、その恩寵に与ることは、我性に死ぬことを個人が意志することによってのみ可能である。我性の放棄とは、独立した存在であるとの高ぶりを否認し、神に従属した存在であることを認める点ですぐれて知解の問題であり、かつ他者との関係において自己になんらの特権性や優越性を要求しない(「己の座に従順に……留まる」SR16.31)という点ですぐれて実践的な倫理の問題となる。この神への立ち返りとしての我性の放棄は、ただ個人の意志によってのみ始まる。被造物においても「霊は……自由な意志を持つ」(SR16.32)。神のうちに愛と憤怒があり、その永遠の神性においては均衡しているのと同じに、「神の声とひびきから出た像 (Bild)」としての被造物においても二つは本来均衡している。個々の存在者の選択が、愛ないし善、憤怒ないし悪へとその性格を具現化するのである。この点でBの自由意志に関する把握は、ルターの『奴隷意志論』における人間とその意志は本来的にことごとく悪であり、自由な意志は不可能であるという立論を大きく踏み越えているように思われる。

ちなみにLさんは哲学者じゃなくて神学者なので、圏外です。でもWA持ってる人、お友達になってください。
てか どこにもないのかよ e-WA。この際ペリカン版でもいいから誰かe-ルター訳聖書の URL 教えてください。

靴屋、万人救済説すれすれやな。だから元気になるのか。オリゲネスと違って悪魔は救われないが。