差異と反復

http://www.faderbyheadz.com/a-Site/a-news.cgi?date=2004.04.21
via http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20040421#1082539770
BT掲載コラム

「何がやりたいのかわからない」と自ら述べる「アート」が、かつてあっただろうか。あったかもしれないが、それはもっぱら戦略的な逆説や詭弁としでであって、ここでの告白を、そうしたギミックと同様に捉えようとすると、取り返しのつかない過ちを犯すことになる。確かに「ワラッテイイトモ、」を、メタ・レヴェルの錯綜をプレイフルかつトラジコミカルに表現した、自己言及性のファンハウスと理解することは可能だ。だが、そうした(お望みならばポストモダン的と呼んでもいい)からくりを、ある意味では無効にするような、やみくもで丸裸の強度を帯びた「何がやりたいのかわからない」感じが、ここには明らかに存在している。しかも「彼」がやりたいことは、実ははっきりしている。「彼」は出ていきたいのだ。
(略)
 ずっと昔、大江健三郎という人が『万延元年のフットボール』という小説の中で「ほんとうのことを言おうか」と問うてみせた。結局のところ、「文学」とは「誰か」にとっての「ほんとうのこと」をめぐる「虚構(ほんとうじゃないこと)」のことなのだと僕は思う。異論はあるでしょうが、最近ますますそう思う。
(略)
 最初から分かっていたことを最初に言っておしまいにするのと、しなくてもよい回り道をわざわざ経巡ってから最後にわざわざ言うのとでは、やはり違うのだ。「小説」というものは(例外もあるけど普通は)最初の一行から最後の一行まで順番に読まれていくものであり、末尾が明確なオチになっていなくても、読了した時点で、その「小説」のサイクルは一旦閉じて、何らかの感想なり印象を読む者は抱くわけで、何が言いたいのかあまりにはっきりしているのなら本来それだけ書けばいいようにも思えるが、それではなぜか伝わらないことが多いのは不思議だが自明の事実だ。だから色々な道具立てを揃えて、回路を接続し、構造を立ち上げ、言葉を駆使して、言わずもがなのことを何度でも言う努力をしなくてはならない。

 「ワラッテイイトモ、」と舞城王太郎に共通するのは、「ほんとうのこと」が潜む、一種パラドキシカルな、ほとんどヴァーチャルでさえある空間、別の言い方でいうなら「内面」(!)を、ひとたび勇気を持って切り離した後で、最後にふたたび引き受けようとする、その循環が孕む錯綜する運動性と混乱する多重性への否応無しのベクトルだ。どこかで長いロープを切ってきて、蝶結びやコマ結びにして、それからほどいてみる、というような。ロープ自体も大事だし、結び方も重要だけれど、肝心なのはやはり、ほどくこと、なのだ。
 僕が「ワラッテイイトモ、なのに、ナイタ!」のは、K.K.が、引きこもっていた「部屋=内面」を出ていこうとして、しかしどうしたって出ていけなどしないこと、出ていくことと引きこもること、つまり「こっち」も「向こう」も実はおんなじなのだということに気付くことで、おそらくはやっと出ていくことが出来た、と思えたからだ。