Von der Regel und ihrem Sinne, Abschn. 2-3

17-18. Jh をうろうろした後にこういうものを読むのは大変ですな。いきなり Adorno へ往くよりはましだろうけど。4時間掛かるってのはいいのか自分*1。しかし……引きの作り方がうまいなあ(違う)。

  • おさかなさん……なんか「向こう側へ行ってしまった」観あり。現物読んでないのに即断だが。interpr. str./comm. というアイディア自体はわたしはかなり使えると思うのですが(z.B. ゆえにナショナリズムは民族という神話/物語とその解釈としての「歴史」を要求する)、しかしお魚さんの i.comm. は粒度が細かすぎるんだよね……瞬間的にしか現存しない共同体というのはそれはそれで魅力的ですが、受容の実相を論じるには使えない道具でもある: なんしかこの人、普遍妥当要求を手続きなしで普遍妥当させちゃってる感がわたくしにはぬぐえませんで。まあ、ある個人が原理的にはあらゆる interpr.comm. に所属しうるのだとすれば、それは官途とは違う意味で個々の趣味規範が普遍妥当性を獲得しているともいえる。つまりここでは Md. なのは個人ではなく規範なのだ……まあお米の国は文化相対主義が好きだからね。だがそうするとある個人がある判断規準を採用するのはなぜかは、まったく説明できなくなるという罠(個性?)。
  • 先生が Dw. を「でむぱ」扱いする所以は分かった、やうな気がする。
  • 細かい点ですが、
    • 117-3・4-50, Z.u.2-3 で引用される問いは、「事実」に本質的に先立つ規範的判断 (regulative Urteil?) を導入する点で、むしろ優れて超越論的なのではないだろうか。
    • op.cit, Z.1. ここでいう「超越論的」とは具体的に誰を想定しておられますか。認識論的でなく超越論的であることを標榜する類の人々って土管系くらいしか思いつかないのですが(←無知)。それともここでいう transz. とはむしろ「ア・プリオリ」なのであろうか。わたくしが遊泳する界隈だと transz. とは「我々の経験の認識をアプリオリに規定する限りでの制約」なので*2、transz. は cognitiv の subset なのですまる。

*1:今日は初めから仕事しない日に決めていたので実害はないが。

*2:Phaenom. 業界だと違うかもしれません。不勉強ですみません。