おきぬけめも:'96/7から'02/3へ

n.Mgの概念を共有しながら決定的な相違。前者においてはSt.は廃絶の対象であり、ゆえにn.Mg.は民衆(Vk.)にPhilos.enが与えるものであっても、この民衆がただちに種族や国家と結びつくものではない。むしろそれはSt.のような機械的規制以前のものとして想定されている。いっぽう'02/3においてはn.Mg.は「そのうちでGesch.lechtとIndiv.がひとつであるような詩人」のうちで可能になり、この詩人の作品においてG.が存立し、これがさらにSt.enの根底にある共同体として構想される(Schはここで古代Gr.を想定しているため、このGesch.tは理想状態において超St.的な共同体である)。

われわれがここでSt.とGesch.tの二Bg.の並列に、E.k草稿でのSt.とVk.の峻別との相似をみることが許されるかはさしあたり問題ではない*1。われわれが向かうのは、'02/3における二概念の関係である。G.lechtとSt.は理性の所産ではあるものの、また時代の制約のもとにもあるため、その範囲は必ずしも一致しない。古代末期のローマ帝国のようにSt.がG.teを超える機構となることもありえ、またさらに近代のように、St.とG.teがほぼ重なり合うこともありえる*2。しかしそれは'96/7とは異なり、もはや排除しあう概念ではない。

詩人においてG.とIndiv.はひとつになる。G.tが「人類」ではなく各種族と解されることから、このIndiv.の透明化はさしあたり種的性格の限定内にとどまる限りでのみ進められているといえよう。これが人類全体(「人間性の永遠な理念」として)と重なるまで透明化され、普遍化されるには、われわれは第三部のG論を待たなければならない。しかしIndiv.の特殊性が詩人において透明化され、個体の間の共通な基盤となり、その交互関係を許す(共同体の基盤となる)ことでは、 すでに種族の枠内においてであるが、詩人はAllg.とBes.heitenが一致する(symb.sieren)特権的な場、理念として規定されている。……

*1:がここでも両者の連関をみることは、おそらく不当ではないだろう

*2:しかしSch.はこの状態をかならずしも肯取していない。それは近代の主観性がもたらした分裂の現れであり、未来においては克服されるものとして定位される。なおその克服がn.Mg.という詩的でもあり宗教的でもある経緯によってなされることが、'02/3における Kirche の肯定的評価につながっている。n.Mg.は一般にその詩的機能から言及されるが、Zeltnerが宗教的な側面をももつ契機であることを指摘しているのは傾聴に値する。Zeltner, Sch. "Kunst"