上記続き

KU, 28節 V.109

だがしかし、この(引用者注:「罪におののき不安にみちた態度……で祈る」という)情調は、宗教とその対象との崇高性の理念と、それ自体で必然的に結合しているとはいえない。実際に恐れを抱いている人間は、かれの忌まわしい心術で*1、ある勢力 (Macht) に……もとっているのを意識していることで、自分のうちに*2恐れの原因を見出しているからであるが、こうした人間は神的な偉大さを賛嘆するような心的状態には決してないのであって、そうした心的状態にあるためには、平静な観照に向かう情調と、まったく自由な*3判断とが必要なのである。人間が自らの誠実にして神の気に入る心術を意識している場合にのみ、ただその場合にのみ、勢力のかの諸作用が*4かれのうちにこの存在者[神]の崇高性の理念を呼び起こす……

某氏のP本(2000)とか思い出したような気もするけど、気のせいでしょう。

*1:いまわしいのか…………。

*2:ここで「恐れ」は客観的なものではなく、心情という極めて主観的なものに再び定位されていることに注意せよ。

*3:強調は引用者による

*4:前述。たとえば自然の猛威が「神の怒り」として表象されるような場合における諸作用