Id. d. M.heit

人間の生得観念(vgl. KU, ''G. ist das angeborene N.anlage.'')から神のうちなる理念へ。

Lb.において、各Md.の内的表象は(なぜならそれは全 Md. を包括する表象なのだから)究極には innere Vorst.en d. G.ttes (phaenomena Dei)に還元されうる。K.は後者についてなんらの述語付けをも許容しない(なぜならK.における Vorst. とは我々の人間的悟性の能力についてのみいわれうるのであり、それを我々は超感性的=理性的存在者に対して適応するいかなる根拠をも有さないから)。
Zeltner は指摘する。Sch.の知性概念に '00 以降決定的な変化をもたらすのは Id. 概念、それもプラトン的な意味での Id. 概念なのであると。いまここで新プラトン主義の影響を論じることはおく*1 。重要なことは、Sys. で trans. Bw. の働きに帰せられた知性の生産(Hervorbringen)能力が、人間の[経験的な]事行の系列からではなく、いまや明確に神的なものの次元から理解されることを要求されることにある。

我々はこの視点の転換に「暗い概念」(Sys.)の暗さを定位することができよう。神的なものは悟性にとって「暗い概念」にとどまる(詩人霊感論についての aka. Method. Vorl. での所説、ならびに後期の das Was と das Dass についての論を参照せよ)。対して、「神における人間性の永遠な概念、つまり神における人間性の理念」が G. すなわち美的生産能力であるといわれるとき、美的生産は端的に「人間性」を規定する概念として定位されている。このとき「個体」としての「詩人」が可能になるとは、経験的個我において「神における人間性の永遠な概念」が働き、生産することを意味する*2。このとき注目されるのは、'00では機械的・自然的とされ否定されたものが、'02/3では「理念」として把握されうると主張されることにある。このことは人間性の所産であるものが、原理的に「神的な生産」「神の自己開示」としての諸理念において通底し、高次の次元において一致することの要求へつながる。……

*1:我々は Giordano Br.以外に、Sch.が直接 Neo-pl.smus に触れたという証拠をもたない。そして Sch. が知った Br. は極めて断片的な引用である。Br. の自然把握が Sch. の Lb. 評価を再考させるきっかけとなった点で、この出会いは Sch. にとって重大なものでありえようが、しかしそのことは、Br. がまったく新しいものを Sch. にもたらしたということを意味しない。むしろ äにおける Idee 把握と、Id.期前期を連続的に捉える Zeltner の見解に我々は注目する。なおこの関心の系列は Tim.schrift[P.studien]へと 遡ることができよう。

*2:ここにキリスト教的なロゴス論の影響を指摘することは不当ではあるまい。Fr.schriftの「精神」論と比較せよ。また「英雄」の理念としてのキリスト把握については第二部を参照せよ。