Id.の r.e Darst. と永遠性としての Id.の(r.?)Selbstdarst.*1

ここで我々は My. と G. が交互的規定関係にあることをみる。これはまず Id. と両者の関係において見ることが出来る。My. は r.Id. である「神々」の世界であり、Id. は G.tt のうちにおいて規定された特殊性であった*1。一方、G.は G.tt における「人間性の永遠な Id.」であり、人間性として規定されると同時に、個々の人間、さらには種族といったさらに特殊な仕方で規定された人間性ではなく、人間性一般と他の諸理念との関係、さらに神と人間の普遍的な関係へと開かれる。G. は人間性の理念として神的なもののうちに運動し、そのことによって他の理念:国家、歴史、自然と関係し、それらの理念を表現することが出来る*2。ここでわれわれは、Mg. に歴史を(これは Mg. に Sch. が与えている規定「r」からすれば、一見奇妙なことに思われるが)、G. に自然を対置することが出来よう。Mg. はその本来的な性格において極めて自然に近いために、かえって歴史の中において、すなわち「そこでは種族と個人とがひとつであるような」詩人の作品として可能になり、また自然と歴史の一致においてのみ初めて神々を現わすことができる。いっぽう、G. は ew. Bg. として人間の時間的な行為の世界である歴史の領域を超え出ており(あるいは領域を異にしており)、いわば人間の永遠な本性として規定される。

*1:あやしいかも。テキスト。

*2:Sch.は直接このようにはいっていない。しかし K. は N.のより観念的な像であり[Akad. 14. Vorles.]、また国家はそれ自体 Kw. なのであるから[Akad. auch PdK]、われわれが彼の所説における Kw.[あるいはK?]と他の理念である限りの人間の所産との間に、このような関係を見出すことは、不当ではないように思われる。