16.48 咲き誇る百合

http://d.hatena.ne.jp/Britty/20040317#p3

以前宿題にした箇所。あらためて通読するとそれほど難解ではない気もしてきた……7章と、また伝統的なキリスト教の象徴体系とあわせて考えると、百合は「謙譲のうちにある人間」=「神の恩寵のうちに在ることを自覚しているすべての被造物、とりわけ人間」であって、同時にそれは神の栄光の座でもある(だって恩寵がそこに注がれているわけなので)、ということでいいような気がしてきた。

この箇所自体は、立ち入って論じる必要は当面ない箇所、だと思うのだが、いわば論全体の結語でもあるので少したちいって書くと、人間が自然との関係を回復する可能性は、人間がその罪の状態を克服し真にありえた人間性を回復することにおいて、またそれによってのみ拓ける*1、自然にあらわれている「徴」を知ることはそのような回復の手段であり、かつ目的である、そしてこのことのうちに神と人間さらには被造世界の和解の道は拓かれ人はそこに差し招かれている*2とこの書の論は縮約されるので、そのような回復がなされた状態を結語に象徴的に書く、というのはありそうな話。7章で、百合はマリア(の謙り)を連想させる仕方で言及されているので、それを踏まえて読むと上のような連想が働いた*3。まあ、花ならなんでもよかったんかもしれないけど(爆)。

*1:なお靴屋はこれをキリストにおいてのみ可能であるとしているので、その限りでは伝統的教説の側に位置づけることができよう。

*2:ベーメの力点は最後のところにあるんだろうと思いつつ、ついそれを忘れるのは、彼と私とでは関心の所在が違うからなんだろう。彼にとっては自然と人間の関係の回復はキリストの受肉のうちにあって、なので自然のプロセスと救済のプロセスが二重化されうる。

*3:確証なく書いていますので、そこのとこよろしく。