はじめにことばがあった

ことばによって語る、あるいは、何かが「語る」、そのとき「ことば」とは―いや「語る」とは何か、それはいかなる事態なのか、ということを最近ずっと考えています。ゲルリッツの靴屋ヤーコプ・ベーメはいう、自然は語っていると。彼はここにある形象、感覚与件を、「物の徴」、在るものの響きとして聞き、言語化される前のことばとして聴きなす。ゆえに彼にとって、「自然は語る」のですが、ことばという比喩を用いることが出来るならば、ここで我々は、自然は形象のうちなる「ことば」によって語るといってもよい。いやそのとき、靴屋にとって、形象こそがすぐれて「ことば」なのではないか。それは自己の形成の原理について、すなわち神について端的な仕方で「語っている」。そのような形象のうちなるさまざまな形態をもつ「ことば」に、音声と概念によって現される言語もまた、含まれる*1

一方で、非言語的に受け取られた形象も、われわれ人においては、それを他者とわかちあうときには、多く言語というフィルタを必要とする*2

靴屋は生涯に何度か神秘体験をしているのですが、その数は少なく、同じ経験を何度も語りながら、しかしその表現はゆっくりと変化していった。非言語的経験を理解するのに、我々は自分の言語世界というフィルタを使わざるを得ない。靴屋はおそらくそのことに自覚的であったろう、と確証なく私は思います。自然な、合理的な、「普通の理解」について、敬意をもって接することのできる神秘家だったからこそ、彼には書くことが必要だった。文字は殺すということを伝えるのにも、まず文字が必要だという逆説に、彼もまた耐えていたのだと思います。

どうぞこの一年が、みなさまにとってよい一年でありますように。あ、年賀状をまだ書いてないよ。。 orz

*1:靴屋は言語と自然形象を対立させてはないように思います。前者が観念的で後者が実在的だというような二分法は、彼には希薄なように思われる。あるいは、彼もまた言語をむしろなにかリアールなものとして感じているように思います。それはあるいはキリスト教の影響なのかもしれない。

*2:ここで、何かが分かち合われたということの確認は最終的には言語を媒介にしている、とは私はいいません。カント『判断力批判』の exemplarisches Genie の論はそのよい反証になるように思います。そのような「分かち合い」のモデルは、おそらく言語的コミュニケーションから取られているのだろうとは思いますが。