マリアさま

http://d.hatena.ne.jp/Sampo/20061204
マリアさまのことを調べようと思って聖書を読んでも、あんまり情報はありません。まあ、聖書から始めるのが基本ではあるのですが。むしろ新約外典の『原ヤコブ福音書』とか読むのがいいんでしょう。あとはヴォラギネの『黄金伝説』とか……

新約聖書が書かれた1世紀から2世紀前半には、おそらくマリア信心はまだ萌芽でしかなくて、盛り上がってくるのはもっとずっとあとですね。とはいえ無原罪懐胎*1アウグスティヌスにすでにあるらしい*2ので、古代末期までにはマリア信心はがっつり固まっていたことは間違いないようです。5世紀のエフェソス公会議あたりが、ひとつの契機なのでしょうか。

さて。カナの婚姻ですが、「たんなる宴会」なのではなくて、ヨハネ福音書の構造の中では非常に重要な意義をもたされています。はじめに(永遠からあるキリスト)、弟子たちとの出会い―宴会―いろいろな出来事―宴会―弟子たちとの別れ(刑死と復活、そして永遠へ)というシンメトリカルな構造の中で、カナの祝宴はキリストと世界の関係性を象徴的に表す機能を担っています。

ヨハネのなかには宴会が幾つか出てくるのですが、その最初がこのカナの祝宴で、最後が「最後の晩餐」です。最後の晩餐は、キリストが弟子たちを愛し*3、弟子たちがひとつになる場であり、この書のひとつの山場になっています*4。いわば後半部の幕開け。で、カナの婚宴は、この「死を前にした宴会」(しかしそれはある意味で弟子たちとイエスの霊的な婚姻でもある)に対し、ひとつの予示となっている、といえる。霊的な婚姻といいましたが、婚姻は旧約聖書では人間同士の原初的な理想的関係を示すと同時に、神とイスラエル民族の結合を象徴する概念でもあります。ヨハネはイエスを冒頭から神として描いており、また1章ですでにイエスは「天と地をつなぐ」存在として示されています。2章の婚姻には、そうした神とイスラエル民族の関係を改めて想起させる機能がある。

ここで大事なことを忘れていたので、追記。そしてヨハネ福音書は『創世記』の構造を非常に意識していて、それとパラレルなので、2章の婚姻は、創世記1章の「男と女とに創造された」に対応付けられます。地上に神が来たことがいわば「第2の創造」といえる事態として把握される。そして、第1の創造では神は男と女を作り、婚姻させ、そして安息に入ったのですが、第2の創造では、婚姻から物事がはじまっていきます。いわば創造の過程が逆回しで繰り返されるのです。なので、男から女を作るという創造の過程の最後の業(それを奇跡といってもいうことはおそらく間違いではあるまい)と、イエスが奇跡を行い、婚姻を完結させる、ということがパラレルに配置されている。その意味でも、この婚姻において奇跡は起こされなければならなかった。これはナラトロジー上の要求であるということも出来ます。他の福音書では何が最初の奇跡だったかということにあまり関心をおいていませんが、ここでヨハネ福音書筆者が「しるしのはじめ」と強調するのには、そのような背景があると考えられる。

ここで場所が「カナ」とされていることも重要です。カナは厳密にはユダヤではなく当時「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる地域に位置していました。そこで全体としてこの章は、「神と人間の、婚姻によって表される関係、そのような悦ばしさが、いまやユダヤだけではなく、他の民族にも及ぶ」というメッセージを伝えているという解釈が存在します。このひとつの傍証として、4章で「サマリヤ伝道」*5が出てきて、ユダヤ地方以外での福音伝道にヨハネ福音書筆者の関心があることを指摘できます。なので、そのような婚宴の場が無事保たれることは、書の運びの上では非常に大事なことになる。奇跡は、「婚姻」という関係性をイエスが承認することをここでは意味しています。

さて、なぜここにマリアが出てくるか、ということも劣らず重要です。ヨハネ福音書筆者はマリアの処女懐妊にもどころかイエスの地上の家系にもどうも全然関心がないのですが、そのわりにマリアはちょこちょこ登場します。どうも筆者はマリアと自分たちが近い関係にあることを主張したかったのではないかとも思われる。なにせ、イエスが息を引きとるさいに、マリアの世話を託されたのは筆者自身だということになっています。そこでマリアにはある程度筆者グループが重ねられており、「マリアのいうことを聞くイエス」像は、筆者たちの教団の正当性の顕示につながっていくのではないかと考えられます。イエスがいうことを素直に聴くようなそういう偉い人の世話を託されているのが自分たちだ、というような。

要するに、ここに書いてあることは史実だと読むより、そのことはおいて、筆者たちがある種の象徴的な仕方で登場人物に託してメッセージを残しているのだと取るのが自然であるとも考えられます。キリスト教の中でも、記述の史実性を否定しないまでも、「ヨハネ福音書は象徴的な仕方で読むのがよりふさわしい」という指摘が3世紀の教父オリゲネスによってなされてもいます。

……そういや、新暦では今日は迎接祭だなや。

*1:カトリックが信じている説。でもあまりすっとんでいるので19世紀になるまでカトリックでさえ教義にはしなかった。プロテスタント正教といった他教派はいまでも認めていない。なお古代にはこれを通り越して、マリア自身も聖霊によって宿った処女懐妊の子であるという伝承もあったらしい。物事なんでもエスカレートするものなのですね。そして15世紀にまたこれが盛り上がって、さすがにこちらはカトリックでも異端の烙印を押されましたが、無原罪のほうは残った。

*2:ある人に教えてもらいましたが、未確認。

*3:ヨハネ13:1

*4:ヨハネは21章からなり、このあと告別演説、受難、復活と怒涛の展開が続く。

*5:ヨハネにだけ存在するエピソード。共観福音書ではむしろイエスイスラエル人を主に相手にしている。異邦人への福音はヨハネに特有なテーマのひとつ