一日一チベットリンク: チベット犠牲者を追悼=胡主席訪問に合わせ−奈良・十輪院

時事通信社の配信。

2008/05/07-21:03 チベット犠牲者を追悼=胡主席訪問に合わせ−奈良・十輪院
 真言宗の寺院「十輪院」(奈良市十輪院町)の橋本純信住職は7日、チベットで「仏教弾圧、人権抑圧」が行われているとして、中国の胡錦濤国家主席が奈良を訪問する10日に、同院で犠牲者の追悼法要を行うと発表した。他の寺院の僧侶にも参加を呼び掛けている。
 橋本住職は「同じ仏教徒として看過できない。犠牲となった多くのチベット僧侶、チベット人に哀悼の意をささげたい」としている。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008050700839

十輪院の場所はこちら。もよりはJR京終(きょうばて)駅と近鉄奈良駅。JR奈良駅からは少し歩くがいけない距離ではないと思う。


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仏教徒ではない私が法要に足を運ぶことはないと思う……だが、橋本住職の気持ちは尊いものだと思う。宗教者として、暴力に対して祈りで応えるということ、自分に降りかかったものではないとしても暴力に対してただ看過しないということは、尊敬すべきありようだと思う。もっともその祈りがただちに何か現実的なリアクションを既に生むと考えているわけではない。それは別次元の問題だろう。マックス・ウェーバーはアシジのフランチェスコの非暴力は尊敬すべきものではあっても、政治的行動とは別の次元のものであるといった。私もそれに同意する。いや、究極には正当化された暴力の行使としての政治と、宗教的次元とは直交しえないのではあるまいか。政治的行動に触発されて宗教的活動が起こるということがあっても、そしてすべての行為が政治的意味をもつものとして受け取られうる限りでそれは政治的に評価されもしようが(それに反対しない)、政治的効果のために宗教的行為をはじめる、というのはそれはカテゴリーの侵犯だろうと思うのだ。だから、このためにだけ、わざわざ奈良へ足を運ぶことはすまいと思う。それは私にとって超えるべきでない一線を超え、交えるべきでない二領域を混同することに他ならないから。

なお、10日、胡主席法隆寺唐招提寺を訪問するという。