今日のことば

あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。――『ヨハネによる福音書』16:2、新共同訳

何度聴いても身も蓋もない詞だが、しかしここには怖ろしい真理がある。主観的な義しさは、何物をも救い得ない。中国発のチベット報道で「テロを行った僧侶を逮捕」というあからさまなでっち上げを聞くたびに、この詞がよみがえる。もちろんでっちあげというのは、私が現場を見たからいうのではなく、チベット亡命政府や支援団体の情報からわたしが推測していることであって、中国政府やその発表を信じる多くの中国人は逆のことを主張している。

先週の金曜日からヨハネ福音書の告別演説をぼちぼちと読んでいる。自分にはもはや外部をどうしようもない状況で心が折れないというのは、もはや自分の個体の力を超えた何かに支えられてでしかありえないという感覚が私にはあって、それは個人の精神には記憶の力・想起の力として現れるのではないかと考えている。もう少し踏み込んで言えば、現前していないものを思惟し感じる能力としての「想像力」ないし構想力。そのことと、弁護者*1たる「真理の霊」が「聞いたことを語り、また、これからこれから起こることをあなたがたに告げる」(ヨハ16:13)ということは案外近くにあるのではないか。ということをここ数年考えるともなしに考えている。考えつつ、この時期を過ぎると雑事にかまけて忘れているのではあるが orz。

わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。……その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。――『ヨハネによる福音書』16:7-8、新共同訳

次の日曜日はペンテコステ*2なので、そのあと一週間が祭期、斎*3解禁となる。なので来週の金曜日は神戸の某インド料理屋で金曜日にだけ出るという肉料理を食べにいこうと今からわくわくどきどきです(マテ

*1:この訳語はあまりいいとは思わないのだが、新共同訳に従う。

*2:私が通っている教会の暦だとそうなる。

*3:断食。