太陽と洞窟と

ベトナム帰還兵みたい」とおおや氏にいわれた「恐怖の渡邊質問」について若干の補足。

渡邊質問の「よく知らない」は発せられるたびにブリザードのように我々を心胆ともに震え上がらせる威力をもっていた。あの身体の芯から冷たいものが棒のように貫いて脳天から抜けつつ一方で自分の身体のほうは地球の底まで突き刺さり引きずりこまれていくような感覚はいまでも忘れがたい。そしてその威力は当時は院生やあるいは助手クラスであった我々若手だけではなく、すでに40代の後半や50代に差し掛かっていた教授・助教授クラスの先生にも十分届いていたようだった。ところで、渡邊質問のなにがそれほど怖ろしいかというと、発言しておられる渡邊先生自身は本心からそのことについてよく知らないと思っておられるということにあった、少なくともそうとしか思えなかったということにあったと思っている。先生の表情や声やたちのぼる気配から、それはこれ以上ないほどに誤解の余地なく明らかにみえた。なにしろそういうときの渡邊先生の顔ときたら、いまから何か新しいことが聴けるという喜びに輝かんばかりなのである(これは質疑だけのことではなくて、渡邊先生は、どんな発表でもそれは愉しそうに身を乗り出して聴いているのであった。若い大学院生にとってそれが逆にどれだけ重圧になりえたか、ここで言を費やす必要はないだろうと思う)。

私だけがそのように受け止めていたのではなくて、それは他の人もいっていたことだった。我々は休憩時間にお互いの恐怖をわかちあってせめても癒しあったのである。これだけ多くの人が同じような結論を引き出しており、また先生自体は狷介ということから遠い方であったことを考え合わせれば、実際に先生自身が本心から「よく知らない」と思っていたのだろうと、お伺いしたことはないけれど、思っている。そして「よく知らない」発言の魂を打ち砕く恐怖は、先生にとっての「知る」「知らない」ということのいわくいいがたい深淵をそこで我々がかいまみ、何かを知っているという我々の青臭い思い上がりが完膚なく打ち砕かれるところに由来するのだろうと、推測している。

ところで、こういう畏るべき戦慄と、とはいえそのことの理解なしにはありえない幸せと、さらにいちどそれを味わったものにとって宿業ともいうべき癒されることのない渇望とが一方にあり、それとは決して両立しないような、というのはそうしたことのすべてを体験しないことでのみ得られる幸せと満足の感覚が他方にある、ということについては、すでにプラトンが国家篇のなかで語っている――であればそれをベトナムと比定する是非はともかく何かからの帰還として語ることはあながち間違いではないようにも思われる。さて、前者を選んだものが後者から受ける扱いについても、それに対して前者が取るにふさわしい態度についても、そこにはすでに云われている。であれば、これ以上私が言を費やす必要はたぶんなく、このことについては私はここで筆をおくこととしたい。